荒脛って何?

 時々、神社や宗教施設、スピリチュアル系のサイトなどで「荒脛」や「荒脛巾」、「荒覇吐」、「アラハバキ」と書かれた紙や立て札を見かけることがあります。
 偶像化したお姿の多くは遮光式土偶になっていますが、これは偽書と言われる東日流外三郡誌での記載に基づくものとされているものです。

 さて一般的に土着の民間信仰の神様を指すとされているようですが、「諸説」が多いのが実情だと思います。
 同様な例として「ミシャクジ」がありますが、ここではアラハバキという神様に絞って考えてみます。
 アラハバキ神を祀る例とされるのは大宮の氷川神社の境内社「門客人神社」ですね。しかし氷川神社では御祭神を「足摩乳命手摩乳命稲田姫命」としています。荒脛や土地の神様ではなく、氷川神社の主祭神である素戔嗚命の奥様と義父母が祀られていることになります。ここから2つの不思議が湧いてきます。
1)なぜ義父母を門客人としているのか?
2) アラハバキとの関係は?
これをWikipediaで見てみると
「神社関係者が物部の末裔との伝承を持つ氷川神社(埼玉県旧大宮市)の門客人神社は元々荒脛巾(あらはばき)神社と呼ばれ、謎の神アラハバキを祭る神社であるが、ここには何故かアシナヅチ、テナヅチの2神がアラハバキと共に奉られている。」
 ここで言う神社関係者は古くからの社家を指しているかと思います。一般に三家(あるいは四家)により社家が構成されていたようですが、いずれも无邪志国造(むざしのくにのみやつこ)の末裔とされ、出雲族、つまり大国主命、更には素戔嗚命に繋がるという事で理解すべきでしょうか。ただ、アラハバキ神は公式サイトでは記載がありません。
 そして「物部の本来の祭神とも言われ、祟り神として神話に現れる三輪山のオオモノヌシが蛇神とされ、また物部の聖地であった大阪四天王寺の地にアラハバキ信仰の痕跡が残ることから、オオモノヌシ=アラハバキ説があるが、この氷川神社の謎からヤマタノオロチとアラハバキ、そして物部の関連が指摘されることがある」
 これも解釈が必要な記述に見えますが、まず唐突に書かれている感のする大物主、物部です。
大物主命大国主命
 ならば、唐突ではないのですが、一般的には別の神様として見られています。ただ、
大物主命≒大国主命
 と見られることはあります。この場合は大国主命の和魂が大物主命となっているという見方です。が、言わば正史から見ると、物部の唐突感は否めません。ところが、ちょっと裏面を探ってみると国造以前の見沼を考えてみると、もしかしたら物部氏との関係性があった様子も伺えます。また氷川女體神社では境内社に石上神社が祀られています。ここで少し結びつきを感じることができそうです。
 そして文中の蛇神ですが、氷川女體神社は龍神社があります。この境内社は今の祇園磐船龍神祭の主役であり、このお祭りは江戸時代までは御船祭として行われていた祭祀です。かつての見沼は広大な面積だったようで、そこに船を出して龍神をお祭りしていたそうです。享保で干拓が行われ、その後、数回の中断後、現在の祇園磐船龍神祭へ変化しているのですが、先程書いた、物部→大物主→蛇神→龍神という変化やつながりを想像しながら見てみると、面白いかもしれません。そして、これがもしかしたら、冒頭の2つの疑問のうちの2に対する答えなのかもしれません。

  では「門客人」の扱いです。
 この解釈として、土着神が祀られた祠や祭祀場に別の神様が祀られるようになり主客が逆転したというものがあります。この考えは幾つかの神社で主祭神の交代が見られるので、成立する考え方とは思います。が、それならば公式サイトで門客人神社の主祭神にアラハバキ神が書かれていないことの説明にはなりません。これも一般的な解釈としては神田神社 本殿の平将門公のように何らかの理由で廃されているのかもしれません。一方、中山神社は境内社 荒脛神社で大宮の氷川神社と、同じく稲田宮主社で氷川女體神社と繋がっていると言われています。この伝えに基づけば大宮氷川神社の荒脛神は中山神社でのんびりしている可能性を考えてしまいます。そして荒脛巾に相当する神様が見沼周辺で進行されており、これを基礎に大宮氷川神社の他、中山神社、氷川女體神社が成立していたのかな?とちょっとした歴史ロマンを考えています。

 さて、ここで少し考えておきたいのが、荒脛巾神というと、まるでその偶像のように縄文時代の遮光式土偶の絵が付けられていることです。全くの私見ですが、この結びつけ方は余りに安易な気がしてなりません。と言うのも、人形の土偶は時代や場所により多様性に溢れていて、その一つ、そしてかなりユニークな形状なものが青森県亀ヶ岡遺跡から出土した縄文晩期の遮光式土偶なのです。考古学的な検証には詳しくありませんが、少なくとも日本人の祖先、私達の血の中には土偶を作った縄文人、そしてその後の弥生人の血が入っていると考えれば、この土偶をシンボリックに扱うことは間違いでは無いのですが、異論、あるいは意見するとすれば「新しすぎる」という事なのです。

 現在、確認されている土偶の中で最古と考えられるものは、三重と滋賀から出土した紀元前11000年前後、約1万3000年前のものと言われています。形はよりシンプルで平面的で、遮光式土偶に比べれば見た目のインパクトは小さいものの、この時代、既に何らかの理由…恐らくは祭祀が行われていた可能性を考え、それが土着神として荒脛巾神の一端かもしれないと考えると、私達日本人が学校で習った歴史感、縄文時代はほとんどが採取・狩猟生活で、同時代の中国大陸からは遥かに遅れた生活を送っていた。と言う先入観を覆すのではないかと思うのです。

 ただ、残念ながら古社と呼ばれるような神社でも、時代と共に祭神が代わっていることも確認できますし、諏訪大社がかつて行っていた独特の祭祀も、多くは明治に入って廃止あるいは変革を求められた中で、一度、土の下に埋もれた神々は、各人、各様に想像するしかないのかもしれません。それだけに、荒脛巾神=遮光式土偶というパターン化は、少なくとも避けるべきではないか…。少なくとも、その地域、付近から出土した土偶や祭祀の跡と結びつけるほうが健全なのではないかと考えるのです。