誉田別命

神様の概要

【別名、別記法】誉田別尊(ほんだわけのみこと)、譽田天皇、品陀和氣命、応神天皇、八幡大神、八幡さま

【祀られている主な神社】
大分県宇佐市 宇佐神宮
東京都世田谷区 世田谷八幡宮
東京都世田谷区 駒留八幡神社

【神使】

神様メモ

 皇祖神の一柱、八幡さまとしても知られる誉田別命は、実在を確認されてはいませんが、在位は古墳時代の4世紀頃と見られる第十五代 応神天皇です。
 天皇は神功皇后が三韓征伐の後、亡父である仲哀天皇の崩御から十月十日後に誕生しました。天皇空位の間は胎内にあったことから「胎内天皇」と表されることもあります。
 鎌倉時代に書かれた承久記では「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひ」と天照大御神に次ぐ皇位の守り神とされています。
 では、その歴史的な経緯を少し見てみましょう。まず八幡様の総本山である宇佐神宮の歴史を考えてみましょう。社伝として宇佐神宮のHPを拝見していると

「御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地にご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。これが宇佐神宮の創建です。」

http://www.usajinguu.com/lineage/

と書かれています。
 少し不思議な書かれ方ですね。これは、もう少し掘り下げる必要があります。そこで同じく神宮の「御霊水」のページで鎌倉時代に書かれた『八幡宇佐宮御託宣集』を紹介しています。

欽明天皇三十二年(571)辛卯、八幡大明神、筑紫に顕れたまふ。豊前国宇佐郡厩峯菱形池の間に、鍛冶の翁有り。首甚だ奇異なり。これに因って大神比義(おおがのひぎ)、穀を絶つこと三年、籠居精進して、即ち幣帛を捧げて祈って言く。「若し汝神ならば、我が前に顕るべし」と。即ち三歳の小児と顕れ、竹葉に立ちて宣く。「我は是れ日本の人皇第十六代誉田の天皇広幡八幡麿(ほんだのすめらみことひろはたのやはたまろ)なり。我が名は、護国霊験威力神通大自在王菩薩(ごこくれいげんいりきじんつうだいじざいおうぼさつ)なり。国々所々に、跡を神道に垂れ、初て顕るのみ。」

http://www.usajinguu.com/lineage/

 つまりは、菱形池にとても奇妙な首を持つ鍛冶の老人が現れます。これに対し大神比義というものが3年間、穀物断ち、籠居し「もし神様なら、私の前に現れてください」というと三歳児の姿となって竹葉の上に立ち「誉田の天皇広幡八幡麿であり、護国霊験威力神通大自在王菩薩という名である」と言ったのです。特に八幡様で見られる神仏習合が明らかになります。天皇であり、神であり、そして菩薩だというのですね。
 そして天応元年(781年)、朝廷は鎮護国家・仏教守護の思いを込めて「八幡大菩薩」の「神号」を送っています。神道あるいは仏教をあまりにピュアに考えると信じられないことかもしれませんが、明治に入るまでの神仏習合の中にあっては、自然なことだったのかもしれません。ついでながら、垂迹の本地仏としては一般に阿弥陀如来、日蓮宗では釈迦牟尼仏としているようです。
 さて、この「鎮護国家」の性質が平安後期からの武家の勃興の中で好まれたのかもしれません。清和源氏、桓武平氏双方が崇敬し、全国に八幡神社が勧請、建立されるようになります。
 そして宇佐の八幡さまは、過去数度、歴史を動かした神様でもあります。
・養老4(720)年:隼人の乱を鎮圧しようと朝廷が宇佐八幡に神託を仰ぐと、八幡神は「我征きて降し伏すべし」と自ら征討に赴いたという…。お話だけではなく、実力行使もされています。
・神護景雲3(769年)年:称徳天皇から皇位継承者に指名されるよう画策した弓削道鏡は「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」旨の託宣が宇佐神宮からあったと宣言した。これに対して、称徳天皇はこれを確認するため和気清麻呂を勅使として宇佐神宮に遣わします。すると清麿は「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」との託宣を受けるのです。この事で道鏡への後継指名には待ったが掛かり、翌年には称徳天皇が崩御し、道鏡の皇位継承は失敗に終わるのです。
 神様に対するロマンを感じる、とても素晴らしい伝説です。

ご神徳

金運商売
繁盛
必勝
出世
交通
安全
航海
安全
旅行
安全
殖産
興業
工業 農業 良縁
祈願
漁業 厄除け 安産
祈願
子孫
繁栄
子育て
守護
夫婦
和合
家運
隆盛
縁切り 国家
鎮護
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長寿 学問
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武運
長久
火難
消除
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合格
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除け
織物諸願
成就

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神功皇后(母神)
比売神