小野篁命

神様の概要

【別名、別記法】

【祀られている主な神社】

東京都台東区 小野照崎神社

【神使】

ご神徳

神様について

 平安初期の延暦21年(802)から仁寿2年(853)に実在した公家であり文人である小野篁は、岑守の子として生まれました。
 岑守は、侍読として天皇に教授するほどの知識人でもあり、陸奥守に任じられます。古い時代には蝦夷との衝突が繰り返された陸奥でしたが、この頃にはだいぶ落ち着いていたようです。しかし篁は弓馬に興じていたようです。そして父親の任期が終わり京都に戻った後には当時の嵯峨天皇から「なぜ弓馬の士になってしまったのか」と嘆かれてしまったと言われています。これがショック療法となり、ここから篁は学究の徒へと変身し、式部省直轄の教育機関である紀伝道の漢文学・歴史学の学生となる文学生試に及第しています。この後は、順調に出世を重ねて行くのですが、天長7年(830)に父を失います。篁にとって最愛の存在だったのでしょうか。この不幸で哀悼や謹慎生活に入り、酷く身体容貌衰えるほどに打ちしひしがれたと言われています。
 それでも天長10年(833)には皇太子の教育担当官である東宮学士に任じられ、承和元年(834)には遣唐副使となり、承和3年に出港しています。が、これは失敗。更に翌年も出港するも失敗。そして承和5年の出港では遣唐大使の藤原常嗣の船に漏水が発見されたため、篁の船に藤原常嗣が乗ることになります。これを暴挙と考えた篁は、自分の利益のため、他の人に害を押し付けるよう事は道理に逆らっている。このような事が堂々と行われるようでは、自らが部下を率いることなどできないと主張した上、病気があることや母の世話が必要だとして乗船することを胸痺してしまいます。当然、遣唐使は篁の抗議を無視する形で出港してしまうのですが、篁の憤懣は落ち着きません。ついには「西道謡」という漢詩を作り、遣唐使の事業を風刺した内容を織り込みます。これが単に遣唐使に留まらず、本タブーとなった表現を多用したために、若き篁を奮い立たせた嵯峨上皇の怒りを買ってしまいます。そして官位剥奪の上、隠岐国への流罪となってしまうのです。
 しかし、これは「お灸」のようなものだったのでしょうか。承和7年(840)には赦免されて平安京に帰り、翌年にはその文才を理由に特別に正五位下に復されています。その後、再び出世を重ね、承和14年(847)には参議となり、嘉祥3年(850)文徳天皇即位に伴って正四位下に叙せられますが、病気のため参朝が困難になり、これを悲しんだ天皇は病気の原因を調べさせたり、治療のための金銭や食料を与えたと言います。仁寿2年(852)、従三位に叙せられますが、間もなく文才を鍵に全国を駆け巡った生涯を閉じています。
 現在では文人として知られる篁ですが、この様に政治の世界にも深く関与しており、高い能力があったようです。また、和歌・漢詩は詠むだけではなく、その筆跡も鮮やかで王羲之や弘法大師に匹敵するものとされています。
 一方で、遣唐使を辞退した理由にも挙げた母に対する愛情は深く、また給与を身近な人に分けてしまうなど、多利的な人物でもあったようです。このことを考えると単に私心や不満で遣唐使を辞退したのではなく、藤原常嗣の船乗り換えが地位を利用した専横に見え、許せなかったのではないでしょうか。

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