崇徳天皇

神様の概要

 鳥羽天皇の皇子として元永2(1119)年7月7日に生まれ、保安4(1123)年 – 永治元(1142)年まで75代天皇として皇位に就かれていた崇徳天皇は、菅原道真公・平将門公と並んで「三大怨霊」としても知られています。
 怨霊信仰の対象となるからには、相応の悲劇・不幸があったのが常ですが、崇徳天皇も例外ではありません。
 まず、その生誕に鍵があるとも言われます。これは『古事談』の記述に見られる逸話ですが、父である鳥羽天皇が崇徳天皇を指して「叔父子」と呼び、嫌っていたというのです。実子を叔父子?というのは何故か。鳥羽天皇は、崇徳天皇を祖父である白河法皇と鳥羽天皇の中宮、璋子とが密通して生まれた子だとの疑念を抱かれていたのです。これが崇徳天皇を取り囲む悲劇の端緒のようです。
 更に幼い崇徳天皇は激しい時間の動きに巻き込まれます。保安4(1123)年1月28日に皇太子となると、その日に鳥羽天皇の譲位により践祚され、2月19日には数え5歳(満3歳7か月)で天皇に即位しています。一見、鳥羽天皇が我が子に次代を託したようにも見えますが、実際には、鳥羽上皇として実権を握るため、崇徳天皇の権勢を発揮させないための権謀術策だったのかもしれません。ただし、鳥羽上皇の天皇在位の期間、その実権は白河法皇の院政下にあり、鳥羽天皇としての実権はなかったようです。
 崇徳天皇の立場で考えれば、実父と噂された白河法皇が崇徳天皇の後ろ盾として機能していたため鳥羽上皇の画策も余り目立たなかったのですが、1129年に白河法皇が崩御されると、風向きが大きく変わります。
 というのも、鳥羽上皇は疑惑に包まれた子を産んだ璋子を遠ざけ、美福門院と呼ばれた藤原得子を寵愛し、得子の子、体仁親王を即位させようと永治元(1141)年12月7日、23歳の崇徳天皇から体仁親王へ譲位させてます。体仁親王は、崇徳天皇の中宮である藤原聖子の養子とされており、系図の上では崇徳天皇にとっても養子であり、「皇太子」となりえるのです。しかし譲位の宣命、つまり公文書では「皇太弟」と記されていました。これは、崇徳天皇には大きな問題です。譲位し上皇ともなれば、そのまま院政が行えるように思えるかもしませんが、院政は「院政天皇の父として息子を後見する立場」なのです。弟が天皇では院政の大義名分がなく、鳥羽上皇の院政が引き続き行われることになります。こうした計略の中で体仁親王が近衛天皇として即位します。その歳、僅か3歳です。
 ところが近衛天皇、一説には呪詛とも噂されるのですが、15歳には健康を害し、17歳で早逝してしまいます。一見、鳥羽上皇(この頃には法王)の画策も潰えたように思えますが、そんなに簡単に自分の権力を手放すような事はしません。次代の天皇に何と遠ざけていた璋子との子、つまり崇徳上皇の同母の弟である雅仁親王を当て、後白河天皇としてしまうのです。これで、完全に「崇徳上皇院政」という可能性はなくなりました。
 そして、保元の乱です。流れとしては、鳥羽法王崩御→崇徳上皇拘束→讃岐へ配流。となります。一見、なんのこっちゃ?という流れですね。ちょっと細かく見てみましょう。
 保元元(1156)年5月に鳥羽法皇が病に倒れ、崇徳院は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできないまま、法王は7月2日崩御します。この事で崇徳院は怒りに打ち震えながら住まいである鳥羽田中殿へと戻ります。すると、7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流されます。上皇とは崇徳上皇、左府とは左大臣で藤原頼長を指しています。この藤原頼長、近衛天皇が崩御した際、呪詛を使ったと噂されていた人物です。この二人が共謀して国家を傾けようなどという不穏を通り越すような噂がながされたのです。そして法皇の初七日である7月8日、藤原忠実・頼長が荘園から軍兵を集めさせないよう後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されます。これらの措置は、法皇の権威を盾にしていた美福門院・藤原忠通・院近臣らによる崇徳上皇・藤原頼長に対して行われたものと考えられます。
 7月9日の夜中、崇徳院は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入った。『兵範記』同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、子の重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。崇徳院に対する直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行したと思われる。
 10日には、藤原頼長をはじめ、崇徳院の側近である藤原教長や平家弘・源為義・平忠正などの武士が集結します。しかしその兵力はとても戦えるものでは無かったようです。後白河天皇方は、上皇の動きを把握しており、集結していた白河北殿に動員した武士を動かし11日未明には夜襲をかけます。崇徳院は命からがら、炎上した白河北殿から脱出し、東山の如意山に一旦逃れるます。しかし、戦力の差は明らかであり、とても逃げおおせられる状況ではありませんでした。投降する以外に道はないと考えた上皇は、剃髪し、護衛・同行した武士らに別れを告げます。ここには、薬子の変に失敗して平城上皇が実権を放棄し出家した事で、自らが好んだ平城京を隠棲地として手厚い待遇を受けて余生を送った先例に倣ったものとも言われます。そして、13日には仁和寺に赴き、同母弟である覚性法親王に取り成してくれるように頼んだのです。しかし、現実は上皇にとって余りに非情なものでした。覚性は、上皇からの頼みを断ったのです。そして護衛もない上皇は寛遍法務の旧房へと移され、源重成の監視下に置かれます。平城上皇の時代とは違い、上皇が在家出家を問わず院政を行っていて、出家が権力放棄の証拠とはなりませんでした。また、後白河天皇は賢帝とは言えず、万一その後を担う守仁親王が若くして薨じた場合には、後白河天皇の脆弱な立場の根底が崩れてしまうため、崇徳院が家長と目され院政を行うリスクもあると考えられたようです。
 さて、捉えられた崇徳上皇ですが、拘束後10日を過ぎた23日、網代車に乗せられ、周囲を武士数十人が囲んだ状態で鳥羽から港へ送られ、更に讃岐国へと流されます。この時、同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだったと言います。
 讃岐国では仏教に深く帰依し、極楽往生をって五部大乗経の写本作りに専念したと言います。中には、この写経を血で書いたとも言われます。そして、保元の乱の犠牲者に対する供養、そして混乱を招いた反省の証として、完成した五つの写本を朝廷に差し出し、京の寺に収めてほしいと願い出ます。しかし、上皇となっていた後白河院は「呪詛が込められているのではないか」とこの写本を送り返しと言います。崇徳院は怒りの余り、舌を噛み切り、写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向す」と、流れ出る血で書き込んだと言うのです。更には、爪や髪を伸ばし続け、その姿はまるで夜叉のようだったと言います。言い伝えの中には、崇徳院は後に天狗になった、あるいは崩御した崇徳の棺から血が溢れてきたというものすらあります。
 この様に怒りや憎悪が伝えられる一方で『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の潮路」にかかれている中では「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂さを伝えながら、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はありませんし。崇徳院が詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」という歌からも悲哀が感じられるものの、怨念や憎悪は全く感じ取ることができません。
 8年後の長寛2(1164)年8月26日に46歳で崩御したのですが、一説には、京からの刺客である三木近安によって暗殺されたともされています。

 ここからが、怨霊、そして神となる崇徳天皇の第二章です。罪人として崩御した崇徳院に対し、後白河天皇は「太上皇無服仮乃儀」(崇徳上皇、服喪の儀なし)と宣し、国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はありませんでした。
 そして13年。安元3(1177)年、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀と大事件が立て続けに起こります。社会不安が一気に広がったのです。『愚昧記』では安元3年5月9日条に「讃岐院ならびに宇治左府の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり」と書かれます。ここから、事あるごとに「崇徳院の怨霊」が噂に登るようになったのです。また同じ『愚昧記』5月13日条では、前年には崇徳院と藤原頼長の怨霊が問題になっていたとも書かれています。一種の予言のようなもので、悪いことが起こり始めると「それ見たことか」とその原因(?)が広まり、そして信ぴょう性を高めていきます。更に安元2(1176)年、建春門院・高松院・六条院・九条院と、後白河上皇の側近が相次いで亡くなります。「崇徳天皇の怨霊」を原因とするには充分な状況が整ったと言えるでしょう。
 こうなると、後白河院が追い詰められる番です。崇徳上皇を配流した際に出した勝利宣言「保元の宣命」を破却し怨霊鎮魂を願い、8月3日には文書などで崇徳天皇を貶める意味で使われていた「讃岐院」という院号を「崇徳院」に改めます。また崇徳天皇の側近、藤原頼長には正一位太政大臣が追贈してもいるのです。更には寿永3年(1184年)4月15日には保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(後の粟田宮)が建立されます。そして崩御直後、地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(後の白峯寺)に対しても官の保護が与えられたそうです。

【別名、別記法】

【祀られている主な神社】
香川県琴平町 金刀比羅宮
東京都港区 虎ノ門 金刀比羅宮

【神使】

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