平将門命

タラシナカツヒコノミコト

別名、別記法

平将門命

神様メモ

 崇徳天皇、菅原道真公に並ぶ「日本三大怨霊」に数えられる平将門命。現代でも大手町の首塚など祟り神としての御威光が最も顕著な存在とも言えるでしょう。
 平将門命は平安時代の天慶2年に「将門の乱」を起こし、新皇を名乗り朝敵として成敗された存在として教科書に乗っている人物です。日本最大級のクーデターあるいは独立運動と言っても良いのかもしれません。
 そんな平将門命が今でも信仰を集めている理由の一つが、その反骨的な精神と判官びいきからなのかもしれません。しかし、それにしても首塚はもとより様々な伝説が遺されているのは、ちょっと不思議ですね。
 また神社の祭神という立場を見てみると、この史実や伝承を背景に社会的評価が顕著にあらわれていると言っても良いのかもしれません。
 まず目立つのは神田神社(明神)の存在でしょう。神社の創建は将門の乱に先立つ天平2(730)年にさかのぼります。そして乱が起き平将門命の首が京都から持ち帰られ、首塚に葬られます。ここまでは神田明神と平将門命との関係性は有りません。延慶2年(1309年)に神田神社の相殿神とされたのです。この時も嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行り、これが平将門命の祟りとされ、供養とともに祭神とされたのです。
 その後、時代が下り徳川幕府が江戸に置かれると神田明神は江戸総鎮守とされ、同時に平将門命が歌舞伎や浮世絵の題材として取り上げられる機会が増えます。すると「将門伝説」は文芸化と共に江戸の町人にも支持をされるようになると共に、描かれる様子は「将門=怨霊」のイメージを膨らませていきます。おそらくは、この時期から「日本三大怨霊の一人」と言う立場が確立されたと言っても良いのかもしれません。恐くもあり、そして頼りにもなる神様としての平将門命が最も大きくなった時代だと言っていいでしょう。
 ところが江戸幕府の時代が終わり、明治維新となると、この立場が大きく変わります。その理由は明治天皇です。平将門命は朝廷に対する逆賊して討ち取られたのですから、明治天皇の足元で神として崇め奉るのは都合が悪かったのでしょう。まして江戸総鎮守の社格から准勅祭社となった神田神社としては明治7(1874)年、平将門命が祭神から外され、代わりに少彦名命が茨城県の大洗磯前神社から勧請されるに至りました。
 これも戦争が終わり時間も経った昭和59(1984)年、実に110年を経過して漸く本社祭神に復帰しています。
 このように大きく時代の影響を受けながら、江戸、東国を見守っている神様ですから、決して粗末に扱うことの無いようにしたいものです。

ご神徳

金運 商売繁盛 勝負・出世 交通安全 航海安全
旅行安全 殖産興業 工業 農業 良縁祈願
漁業 厄除け 安産祈願 子孫繁栄 子育て守護
夫婦和合 家内安全 縁切り 国家安泰 健康
長寿 学問成就 開運招福 武運長久 火難消除
芸能・芸術 試験合格 方位除け    

祀られている主な神社

茨城県坂東市 國王神社
東京都千代田区 神田神社 

神使

関連する神様

一言二言

 平将門命を祭神とする、あるいはご縁のある神社は東京の他、茨城や千葉、埼玉など関東圏に多くあります。その一方で対立した藤原藤太などの人物にゆかりの寺社も数多く有り、中でも有名なのが成田山新勝寺でしょう。新勝寺が将門の乱の鎮め祈願の為に建立されたお寺ですし、結果として将門の乱が鎮められたのですから、祟り神の標的となっていたとしても可笑しくは無いでしょう。
 が、そんな平将門命が本当に今でも恨み骨髄なら、各所にある成田山の別院が、こうも東国の各所で栄えてはいないでしょうね。それに首塚から皇居は目と鼻の先。「神田神社にお参りしてから新勝寺に行ってはいけない」とは思えないのです。