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目次

源義家

 源義家、又の名を坂東太郎。「源氏」と言えば鎌倉幕府が連想されるかもしれませんが、義家はその祖先。平安時代の人物です。

生没年など

 義家の正確な生没年は不詳なのですが、享年は68歳で死去したとする史料が多いところ、そして没年は信頼性が高いと言われる『中右記』で没年を嘉承元年(1106年)としているところから、長暦3(1039)年に生まれたと考えられています。
 源頼義の長男として生まれ、一般には、河内源氏の本拠地である河内国石川郡壺井(現在の大阪府羽曳野市壺井)の香炉峰にあった館で生まれたと言われています。
 幼名は不動丸、または源太丸とされ。7歳の春に、山城国の石清水八幡宮で元服したことから、後に別名にもなる「八幡太郎」と称するようになります。

歴史上の活躍

 義家の名前が教科書に出てくるのは前九年の役・後三年の役と言う、二度に亘る奥州征伐だと思います。

前九年の役

 前九年の役は義家の父、頼義と安倍氏との戦いで天喜5(1057)年11月、当初は戦死者数百名の犠牲を払った黄海の戦いで敗戦を経験します。しかし、その後、出羽国の清原氏の援護を受けてようやく安倍氏を破ることができました。そして康平6(1063)年、戦功があったとして義家は従五位下出羽守に叙任されています。
 その後、康平7(1064)年、京に在していた義家は美濃国で美濃源氏の祖・源国房と合戦し、また陸奥で印と国庫の鍵を盗んだ藤原基通を捕らえるなど功績を積み、延久2(107年)年に下野守に叙任されています。たことが『扶桑略記』8月1日条に見える。

北面の武士の魁として

 こうして朝廷にも名を知られるようになった若武者 義家は、永保元年(1081年)10月14日、白河天皇が石清水八幡宮へ行幸する際、園城寺からの僧兵による襲撃から帝を守るため、弟の義綱と共に郎党を率いてを護衛の任務に当たりました。今でも天皇や皇族に対する作法には古式に則ったものが多いのですが、この護衛は前代未聞の事だったようで、本来、官職を得て任に当たるべきところ、無官位だったために関白 藤原師実の前駆という事として帝の側に付くこととなります。また、帰還がよるとなり、僧兵に襲われる危険性が高まると、正装である束帯を脱ぎ、戦いやすい布衣という普段着へと着替え、弓箭を身につけて白河天皇の乗輿の側らで任務を続けたのです。帝の側で普段着とは…と言うので、藤原為房はその著書『為房卿記』で「布衣の武士、鳳輦に扈従す。未だかつて聞かざる事也」と書いています。こうした合理性や型破りな一面が帝のお気に召したのか、12月4日に白河天皇が春日社へ行幸した際には、今度は甲冑で固め、弓箭を身につけた百名余りの兵を率いて警護の任に当たります。こうして、無冠あるいは低い官職であっても、帝の思し召し、必要性があれば、警護の任に当たれることが常態化していったようですし、義家・義綱の兄弟は帝の近侍として仕えるようになります。
 後に「北面武士」という、御所の北面の下に近衛兵団として詰め、上皇や帝の身辺警護や御幸に同行した武士が組織されますが、この兄弟の活躍は、その魁と考えられます。
 後三年の役に勝利してから10年後、承徳2(1098)年になって正四位下に昇進し、10月には院昇殿を許されます。時間は掛かったものの武士の家柄としては破格の昇格は白河法皇の強引さがなければ実現しなかったものですが、その一方、公家は「家格」に拘り自らの立場を守ろうと反発があったようです。
 康和3(1101)年、次男の義親が、鎮西で大宰大弐 大江匡房の告発を受けます。これに朝廷は義家に義親を召還するよう命じます。しかし、召喚の任を受けた郎党の首藤資通は康和4年(1102年)2月20日、義親と共に義親への召問の任に当たっていた官吏を殺害すると言う事件を起こしてしまいます。これには白河法皇の信頼の篤い義家であっても庇い立てすることはできず、義親は隠岐へ流罪となってしまいます。   
 長治元年(1104年)10月30日に延暦寺の僧兵の討伐をおこなっていますが、これが義家の最後の活躍となってしまいます。
 翌々年の嘉承元年(1106年)、四男の義国が、叔父である源義光と常陸国で合戦を行い、義家には義国を召し上げよ下命されます。また一方で義国と争っていた義光らにも捕縛命令が出という混乱の中、遂に義家は同年7月15日に68歳(と言われる)でこの世を去ることとなります。

 こうして一時は、法王の最側近とも言える立場に自らを引き上げ、また武士という階級が公に認知されるようにした義家の生涯でしたが、この後には、流罪となった義親に同調する動きが出てくるなどして同じく法王の側近だった平正盛に義親の追討が命じられます。ここから子孫としての河内源氏は雌伏の時を迎え、義親の子 源為義が家督を継ぎ、義光・義国や義忠の遺児・河内経国、為義の子 源義朝などは関東へ下り勢力を蓄え、義家の玄孫である源頼朝が鎌倉幕府という壮大なストーリーの始まりとなりました。

義家と神社仏閣

神社仏閣での伝承・記録

 前九年の役・後三年の役で関東を経由し、奥州征伐に向かった義家一行ですが、その足跡のように神社、特に源氏の氏神である八幡神社を残しています。
 こうした神社をマップに描くと、義家が辿った道を把握できるのではないでしょうか。

縁の神社仏閣

世田谷区 世田谷八幡宮

世田谷区 駒繋神社

世田谷区 太子堂 八幡神社

練馬区 白山神社:

台東区 今戸神社

台東区 鳥越神社

中央区 兜神社

中央区 福徳神社

新宿区 月見岡八幡神社

中野区 多田神社

中野区 宝仙寺

北区 平塚神社

江東区 猿江神社

日野市 百草 八幡神社

八王子市 館町 御霊神社

川崎市 白旗神社:

川崎市 中島八幡宮:

行田市 行田 八幡神社