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平田篤胤とは

生没年など

安永5年8月24日〈1776年10月6日〉に生まれ、 天保14年閏9月11日〈1843年11月2日〉に満年齢69歳で亡くなった江戸後期の歴史家であり、医師であり、国学者であり、神道家でもある人物です。

歴史上の活躍

平田篤胤と聞いてピンと来る人はオカルトやサブカルチャー好きな人が多いかもしれません。と言うのも、平田篤胤が残した著作には寅吉と言う少年が体験したという冥界・仙界の様子を纏めた「仙境異聞」や今の八王子東中野で生まれた勝五郎少年が、元は6歳で亡くなった今の日野市程久保で育った勝蔵という子供の生まれかわりだという話を纏めた「勝五郎再生記聞」と言った怪異譚を実際に現地へ訪問し、ヒアリングを行って書き上げているからです。
これだけなら、まぁ、特段取り上げる必要も無いのですが(私個人は好きな話なのですが)、神社、神道に果たした役割もとても大きいのです。

学生として、奉公人として、藩士として医学者として

篤胤は20歳になった寛政7(1795)年1月8日に故郷の秋田 出羽久保田藩から脱藩して、江戸へとやってきます。恐らくは大望を持っての上京だったのでしょうが、身寄りのない篤胤は苦しい時を過ごさなくてはならなかったようです。大八車の車引、市川團十郎(5代目)の飯炊き・三助、そして火消しなど職を転々とさせながら、勉学、特に最新の学問である西洋医学や地理学、天文学の学習に努めます。そしてとある旗本家の奉公人に収まることができました。
こうして苦学を重ねた篤胤に運が向いて来たのが寛政12(1800)年の事です。この年、25歳となった篤胤は江戸住まいの備中松山藩士 平田藤兵衛篤穏に才覚を認められ養子とされます。さらにこの頃、駿河沼津藩士 石橋常房の娘の織瀬と出会い、享和元年(1801年)26歳で結婚しています。当時の武家で恋愛結婚は珍しかったのでは無いでしょうか(?)。
こうして身を固めた篤胤は、蘭学を学んで解剖にも立ち会ったり、あるいはロシアからの圧力が強まる中で情報収集を行うなど、医学者・地理学者として働くようになります。この時点で「神道」や「国学」とは、あまり関係はしていないように見えます。しかし、前述の織瀬との結婚が大きな転機へと誘っていたのです。

本居宣長マニアとして

享和3年(1803年)綾瀬が一冊の本を買って帰ります。それは、国学の大家 本居宣長の著作でした。この本を読んだ篤胤は国学に目覚めたと言います。しかし、宣長の死後2年を経過していて直接教えを請うことはできません。ところが、篤胤は霊夢をみて、その中で宣長が入門を許可したのだとそうです。これ以後、篤胤は「宣長没後の門人」を自称するようになります。これが、私が篤胤を宣長マニアだと考える原点です。そして、ここから宣長の業績を継ぐような活動に爆進して行きます。
文化2(1805)年、篤胤は宣長の長男 本居春庭に霊夢の話を書簡に書いて渡した上で、春庭に入門します。そして『直日霊』『初山踏』『玉勝間』『古事記伝』など宣長の著作を読みまくり、ほぼ独学で本居派国学を修めていくのです。
一方、同時期には地理学者 山村才助が総合的な地理書『訂正増訳采覧異言』を纏めます。また蘭学者 志筑忠雄は『暦象新書』を著し、コペルニクスの地動説やニュートンの万有引力の法則が日本国内で認識されるようになっていました。
これらの新しい知識、情報に篤胤が食いつかないはずがありません。元々、医学や地理学で蘭学、西洋に興味津々だったのですから。そして自身の世界感を改める必要に駆られます。ここで更に強い影響をもたらしたのが宣長によって残された「国学」だったのです。宣長は漢意(からごころ)と言われる、物事を飾り立て、理屈を捏ねては中華思想を正当化し、不都合には蓋をするような風潮を批判し、はかりごとを加えず善悪ともにありのままのさまを尊ぶ「大和魂」を重要視していました。これは、文献や考証を重要視する宣長の生き様そのもので、宣長以前には当たり前のようになっていた仏教あるいは儒教的な視点にたってしまって見失われていた古代日本のありさまが、全く異なる視点で解明さていたのだと篤胤は認識したのです。

宣長からの独立

享和3(1803)年になると、篤胤は宣長の路線を継承しつつ自立の道へと進んでいきます。まず、処女作『呵妄書』で、大名クラスから信頼されていた儒学者 太宰春台『弁道書』を批判します。漢意に対するいきなりの挑戦状と言っても良いでしょう。そして文化元年(1804年)には「真菅乃屋」という私塾を設立し、身分を問わず誰に対しても勉学の門戸を開きました。ここから、マニア篤胤は怒涛の著作業に勤しみます。一方で門弟に指導をしながら、生涯で百とも言われる著作を完成させたのですから、寸暇を惜しんで書きまくったことが判ります。そして、先程書いたように、寅吉・勝五郎少年などの怪異について現地調査もしているのです。正に鬼神の如くに書きたいこと、伝えたいことを書きまくったのでしょう。
文化8(1811)年には、それまでの講義が門弟によって纏められ『古道大意』『出定笑語』『西籍慨論』『志都の石屋(医道大意)』などが出版されます。
ところが、文化8年10月、篤胤に転機が訪れます。それまでは、宣長の『古事記伝』に従って神代の時代を解釈すれば良いと考え、宣長路線をマニアックに突き詰めていた篤胤でしたが、駿河国府中に自身の門人を訪問した時に、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』など古伝が、必ずしも一致していないという素朴な疑問を口にしたのです。そして、宣長以外の諸書も見直して、真に正しい内容を確定すべきだと言うのです。
そして駿府で本屋「採選亭」の主人で門弟の柴崎直古の寓居に籠もって、様々な書籍を引っかき集めて12月5日から年末までの25日間をかけて、『古史成文』、そしてその編纂の根拠を記した『古史徴』、更には『霊能真柱』の草稿を一気に書き上げます。

妻の死と幽界研究

文化9(1812)年、37歳の篤胤を不幸が襲います。恋愛結婚をし自らを国学へと深く引き込んだ愛妻 織瀬が亡くなったのです。この死に対し、

「天地の 神はなきかも おはすかも この禍を 見つつますらむ」

と悲しみに暮れる歌を読んでいます。そして、これが後の幽界研究につながるのです。
この年、『霊能真柱(たまのみはしら)』を書き上げ、早くも幽界を題材として取り上げます。もしかしたら、これが本当に篤胤が宣長から独立した起点7日もしれません。というのも、宣長は死は霊が「夜見」(黄泉)という穢れた世界へ行くのだと言う、なんとも取り付く島もない論を展開していたのに対して、人は生来ている間は天皇が統べる顕界の「御民」であり、死後は大国主神が統べる「幽冥」の神となる。そして、生前も死後も、それぞれの世を統べる者に使えるものである。と書いたのです。完全に宣長没後の門弟から、独自の死生観を見出したのです。

神道思想の礎として

この事は御霊の安定を「神道」に求めたもので、篤胤の言う神道は仏教と並ぶ「宗教」としての性質を帯びることになります。そして、キリスト教にも影響を受けたのでしょうか、天御中主神を創造主とし、漢意を一切排除した「復古神道神学」を樹立したのです。
更に篤胤は、古事記などの矛盾を解決するため「天地開闢は万国共通であるはずだ」と言う観点から海外の古伝説にも視野を広げ研鑽を重ねます。このバイタリティ…正にマニアックです。しかし、一方で本居宣長の考えを継承する多くの国学者からは邪道扱いされてしまいます。まぁ画期的な考えは、常に批判にさらされるものですね。しかし、マニアはそんな事ではへこたれません。自分は、そもそも古代史研究が目的なのではなく、自分が生きる現実世界を生きる当時の日本人にとって「神のあるべき姿と死後の魂の行方」を体系化することだと説いたのです。
多くの批判に晒されながらも、篤胤の考えは国学を実証主義から神道の本道を説くものとして多くの人に支持されるようになります。そして、この世を統べる天皇を崇敬する考えは、遂には「尊皇攘夷」へと繋がり、維新後の廃仏毀釈にも強く影響していると言われているのです。

こうして、死後も明治維新後の国家神道へも影響を与えた篤胤。「篤胤没後の門人」と称した人が1,330人もいたと言うのですから、マニアックに興味を深めていくことがどれだけ多くの人に影響を与えたかという事実を物語るようです。
そして、この事が荷田春満、賀茂真淵、本居宣長と並んで国学四大人の一人として挙げられる所以なのではないかと思うのです。

篤胤と神社仏閣

縁の神社仏閣

平田神社(祭神)

北口本宮冨士浅間神社(境内社)