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目次

吉良頼康とは

 吉良頼康。世田谷区民ならピンと来ますよね!来ますよね!来ない方、少し呼んでみてください。世田谷区とは切っても切り離せない人ですから。

 元々、吉良氏は足利将軍家と同じ血筋です。まだ鎌倉幕府だった時代、足利家の三代目当主だった吉良義継が三河国吉良荘から「吉良」姓を名乗るようになります。別に吉良義継の兄である長氏も吉良姓を名乗っていますが、長氏は三河吉良家、義継は武蔵(奥州)吉良家として区別されるようです。
 なお、三河吉良家は後に忠臣蔵に登場する吉良上野介義央が生まれるなど、遠いとは言え、縁があることは間違いありません。

生没年など

 今回の主人公、吉良頼康が生まれた年は解っていません。吉良家は既述の通り、足利家に連なる家系であり、頼康の時代、つまり戦国時代には力は衰えたとは言え、足利ブランドを活用していたように見えます。そして、後北条氏が鎌倉を抑え、大永4(1524)年、江戸へと攻め込んで北条氏康が江戸城を攻略すると後北条家との縁を深めます。ただ、足利ブランドがありますので一介の家臣ではなく、協力者的な立場だったように見えます。江戸城に近い世田谷、現在の横浜市南区蒔田町に居城を構え、世田谷御所や蒔田御前とも呼ばれていたそうです。
 一介の家臣ではないとは言え、協力者として信任を得る必要があります。その機会は天文2(1533)年、北条氏綱が鶴岡八幡宮を造営する際、蒔田から材木を水路・海路を使って現在の横浜市金沢区の杉田まで送り、更に延べ5万人とも言われる人足を使って鶴岡八幡宮まで運んだと記録されています。
 この功が評価されたのか、それとも足利ブランドが効いたのか氏綱の娘を正室に迎えます。この時、姫は持仏として薬師如来立像を携えていたと言われます。なお、この薬師如来像は作風などから室町時代の作品と考えられ、現在は世田谷区若林の勝国寺の薬師堂に安置されて世田谷区の指定文化財となっています。

歴史上の活躍

 戦国時代の武将とは言え、目立った武勲は無く、寧ろ後北条家が足利ブランドを利用するために別格の扱いを受けていたように見えます。実際、頼康は元の名を頼貞と名乗っていましたが北条氏康から名前の下の文字を拝領し頼康へと変えていたり、諸役の免除や、吉良家独自の印判使用を認められるなどしていました。

宗教家として、伝説の人として

 目立った武勲も無い人物を特段取り上げているか、ちょっと不思議になるかもしれません。取り上げる理由は簡単です。世田谷区の歴史と深く関わっている事が伝説や神社仏閣などから見て取れるからです。
 世田谷には「世田谷七沢八八幡」と言う言葉があります。沢の字が付く地名、そして八幡様が沢山あると言うことで、特に地名変更や神社合祀など近現代では比定することが難しくなっているので、沢地と八幡様が多い。と理解しておく方がここでは簡単でしょう。
 そして、この言葉が生まれたのが頼康あるいは吉良家が世田谷を治めていた時代だと言われています。それだけ八幡神社を大切にしていたのは、やはり足利家、更に遡れば源氏の血を間違いなく引いているという自負からだったかもしれません。また、世田谷では有名な仏閣として豪徳寺があります。このお寺は招き猫で有名で、その逸話は江戸時代の井伊家と繋がり、現在も井伊直弼を始め井伊家当主のお墓が連なっています。しかし、その元となるとどうでしょう。頼康本人ではありませんが、頼康の祖父である政忠が伯母である弘徳院のために建てた臨済宗の庵が始まりだと言います。これに代表されるように、吉良家は禅宗のお寺を大切にしていたようです。
 さて、ここから伝説の話になります。現在、駒留八幡神社の近くに「常盤塚」と呼ばれる史跡があります。小さな小さな公園のような場所に「常盤塚」と書かれた巨石があるのですが、人通りも少ない裏道に面しているため、気づかない人も多いかもしれません。しかし、この常磐は頼康の寵愛を受けた側室だった人物です。出自は頼康家臣の大平出羽守が父と言われ、この父は奥沢に居城を構えていたようです。しかし、頼康には他に12人、合計13人の側室がいたそうなのです。その中でご寵愛が一人に集中すれば嫉妬が渦巻くのは必然と言えるでしょう。そんな中、常磐が懐妊します。頼康には嬉しい知らせですが、他の側室には更に嫉妬の炎が燃え上がる燃料にしかなりません。そして遂には恐ろしい計略が実行されてしまうのです。

側室の計略と伝説の誕生

 その計略とは常磐のお腹の子が頼康の子では無いと言う評判と「証拠」を作ることでした。まず、父親に擬されたのが家臣の中でも一番の美男子と言われた内海掃部です。そして、彼と常盤が密通を重ね懐妊したと噂を流します。さらには掃部の懐に常盤の筆跡を模した文を密かに入れておき、これが公の場で露見するように図ったのです。
 そうとは知らず、噂と「確たる証拠」を突きつけられた頼康の怒りは計り知れません。直ちに内海は手討ちにされ、常磐も捕縛するよう命が下されます。
 これに対し、身の危険を察知した常磐は世田谷の城を抜け出し、奥沢の父の居城に向かって身重の身体を運んだのだと言います。母は強しなのでしょうが、そう安安と逃げられる状況ではありません。そこで常磐は可愛がっていた白鷺の脚に自らが潔白であるという遺書をしたため、奥沢に向けて放ちます。しかし、この白鷺も奥沢へ向かう途中で力尽き、あるいは射殺されたとも言われますが、地面へと落ちてしまいます。そして、常磐自身も観念して自害して果ててしまいます。
 これで終われば、物語は嫉妬心と恨みを晴らした他の側室の語り草で終わったのでしょうが…。自害した常磐のお腹の子の胞衣にはなんと桐の模様、つまり吉良家の家紋が浮かび上がっている気づいた家臣がおり、これが頼康に伝えられます。そして、この事件から2日後の事、手討ちにされた内海掃部の屋敷から黒雲が湧き上がって来たのです。この黒雲から稲光が走り、世田谷城内が揺れ動く中で常磐を追い込んだ側室の下女が発狂してしまうのです。そして遂には、主である側室が計略を暴露した挙げ句、その声は掃部のものとなり恨み言を叫びながら無念と一筆書いて失神したというのです。
 流石にここまで来ると、頼康も自分の過ちに気づきます。まず、側室12人を手討ちにして成敗します。そして、常磐の亡くなった所に常盤塚を作り、その近くには常磐と共に亡くなった子を八幡さまと祀るため「若宮八幡神社」を建立します。これが今の駒留八幡神社です。更に12人の側室に常磐を加えた13人塚を建立したそうです。が、こちらは環状七号線などの整備により、取り壊されて現存していません。そしてもう一つ…。白鷺です。奥沢に向かう途中で死んでしまった白鷺。その場所には、まるで空を舞う白鷺と同じ姿の花が咲くようになりました。これが現在、世田谷区の花「サギソウ」にまつわる逸話にもなっています。
 一方、この伝説には多くの「架空の人物」が登場していることから信頼性に乏しいとの評価もあります。しかしながら、地元の伝説として覚えておくと、その位置関係や吉良家と宗教の関係性が見えてくるかと思います。
 また、常磐が殺されたのには別の理由があったのでは無いかという話があります。現在も常盤塚には年の法要が日蓮宗の常在寺によって行われています。そして常在寺の御由緒として開基を頼康の側室、常磐姫と書かれています。ここに問題があったのでは無いかと言う見方です。先程も書いたように頼康や吉良家は禅宗を保護、信仰の対象としていました。しかし、常磐は日蓮宗のお寺を堂々と建てた。これが頼康の逆鱗に触れたのではないかと言う話です。
 ただ、頼康が信仰心に篤く、また常磐を寵愛していた事から考えると、この説よりは架空の人物オンパレードでも、計略に陥れられた物語の方を信じたいですね。

義家と神社仏閣

神社仏閣での伝承・記録

 前九年の役・後三年の役で関東を経由し、奥州征伐に向かった義家一行ですが、その足跡のように神社、特に源氏の氏神である八幡神社を残しています。
 こうした神社をマップに描くと、義家が辿った道を把握できるのではないでしょうか。

縁の神社仏閣

駒留八幡神社(創建)

北澤八幡神社(創建)

世田谷八幡宮(中興)

奥沢神社(吉良家家臣 大平氏が居城の鎮守として創建)

常在寺(常磐が開基とされる)