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弘法大師 空海

 「大師は弘法に取られ、太閤は秀吉に取られる」と言う言葉がありますが、大師号を贈られた僧侶は同時代の伝教大師 最澄など数々いらっしゃる中で「お大師様」と言えば弘法大師 空海をやはり連想する人が多いのでは無いでしょうか。
密教の日本への導入や東寺、金剛峯寺建立など様々な業績もありますが、それを時代を追って書くのは少し野暮な感じがしますので、寧ろ伝承あるいは伝説と言われるものを中心に書いていこうと思います。

生没年など

 平安時代の宝亀5(774)年、讃岐国(現 香川県)多度郡屏風浦の郡司 佐伯田公の子として生まれます。没年はと言うと、今でも高野山の奥の院で禅定を続けていらっしゃるとされますから、入定の年としては承和2(835)年とされ62年の間、日本のみならず唐でも活動され続けてきました。

伝説・伝承の数々

生誕

キリストにしてもお釈迦様にしても聖徳太子でも、そして太閤秀吉にしても、聖人・偉人には(例え創作であっても)生誕、あるいは妊娠のときから逸話がつきものです。空海にも逸話が残されています。まず母親のお腹に入ったのは、その母親が天竺から飛来して来た聖人が懐中に入る霊夢を見たその日の事でした。そしてそれから1年後、空海が生まれます。そしてこの日、6月15日は中国で密教を広めた不空三蔵が入滅した日と同じだったと言われています。

貴物としての幼年時代

貴物(とおともの)、空海…寧ろ真魚と書いたほうが良いかもしれませんが、幼き頃、両親からそう呼ばれていたと言われます。鑑真の高弟で、鑑真来日後に後を追うようにして来日した法進と言う僧侶がいます。来日後は鑑真を助け、東大寺の戒壇院設立に貢献している人物です。この法進上人が讃岐を訪れた時、真魚の泣き声を聞きます。すると「生まれながらにして仏縁を備えている子ですから、大人になれば仏の教えを広めるでしょう。大切に育てなさい」と両親に伝えます。実際、神童ぶりを発揮し、泥遊びをしていると思えば仏像を作り出し、石積みで遊んでいると思っていれば塔婆が出来上がっていると言う状態。また夢を見れば蓮華の上で仏様とお話をする。と、寝ても覚めても凄いことになっていたのです。そして、法進上人の予言の後、またも不思議な事が起きます。朝廷から派遣された問民苦使(もみくし)と言う視察の役人がやってきます。これは文字通り「民の苦を問う」と言う目的で視察をする役人なのですが、8歳あるいは9歳とも言われる年の真魚を屏風ヶ浦の辺りで見つけると急に馬から降り、そして恭しく拝礼を始めたのです。これにはお供の人たちも驚いてしまいます。京都から視察にやって来て、郡司がきちんと治めているか、民草が苦しんでいないかと見回る中で、急に道端の子に頭を下げるのですからただ事ではありませんよね。すると問民苦使は「この子の廻りを四天王がお守りをしている」と語ったというのです。問民苦使の役割は先程も書いたように都が直接、地方の状況、特に民草の様を見聞きすることにあります。もし過酷な状況があれば都に持ち帰って報告をしなくてはなりません。恐らく、そのような役目を本心から為すことができる人なら、今で言う「能力者」として仏様や神様の存在も目に入っていたのかもしれませんね。
そして七歳になった真魚に一つの転機がやってきます。いや転機を作り出します。「大師和讃」の一節に「御年七つのその時に、衆生のために身を捨てて、五つの岳に立雲の立つる誓いぞ頼もしき」とあります。これは屋敷から西北にある高山に登って岩が突き出したその頂上で「仏は一心に祈れば、お姿を顕し霊験をくださると言います。どうか私の願いをお叶えください。もし、叶わぬ願いなら、この身を仏に供養します」と言い、小さな手を合わせて更に「行く末で、人々の幸せのために働くことが出来ますように」と念じ、その小さな身体を絶壁から投じます。すると、願いの通りお釈迦様が姿を顕し、大きな光明を放たれのだそうです。そして真魚の身体は舞い降りてきた天女によって受け止められもとの場所に戻されたそうです。この行動は三度繰り返され、三度とも、最後は天女がその身体を受け止めて元の場所に戻されたと言うのですから…。凄い信念としか思えません。そして現在、その絶壁のある山は捨身ヶ嶽と呼ばれ、その麓には「我拝師山 求聞持院 出釈迦寺」と言うお寺が置かれ、岩場は奥の院とされています。

少年時代から謎の仏門修行へ

18歳になった延暦11(792)、大学寮に入ります。専攻は当時の主流だった明経道で儒教を主とした孔子の教えを学びます。が、この勉学に疑問を感じる中である沙門と出会います。そして、その沙門から「虚空蔵求聞持法」を教えられます。これは、決められた作法に則り100万回の真言「ノウボウ アキャシャキャラバヤ オンアリキャ マリボリソワカ」を100日間で唱え切るというものです。そして修行を終えれば、あらゆるお経を全て記憶でき、そして理解し、忘れる事すらなくなるというものです。神童・貴物として幼少期を過ごしてきた天才にとって、当時、最新の科学、哲学とも言える仏教を修める事は途轍もなく魅力的なものだったはずです。この求聞持法を教えた沙門は、石淵僧正 勤操とも、奈良大安寺の戒明とも言われています。そして、ついには親族の大反対にも関わらず大学を辞め、仏道の修行へと入ります。この間の足取りには不明点も多いものの、高野山や吉野山、金峯山、更には愛媛県の石槌山などの山中だけではなく、高知県の室戸岬にある御厨人窟(みくろど)に籠もるなどして修行に打ち込みます。
こうした苦行を終えるときが来ます。すると夜空にある明星が空海の口に飛び込んできたと言います。この明星、つまり金星は「明星天子」という神で、無限の智慧と慈悲を持ち授ける「虚空蔵菩薩」の化身だと言われています。つまり虚空蔵求聞持法を修め、その証として虚空蔵菩薩が金星となって真魚の身体に入り込んだのですね。これで一つのゴールです。
そして、20歳、廷暦12(793)年、和泉国(現 大阪府)槙尾山寺で出家し、名も教海と改めました。

入唐の経緯

空海は無名の沙門として、既に内供奉十禅師(天皇の護持僧)の一人で仏教界に確固たる地位を築いていた最澄と共に遣唐船に乗り込みます。この時の状況には諸説あるようで、例えば学僧としてだったのか?と言うと、かなり疑問があるようです。如何に厳しい修行を終えたとは言え、都から見たら、大学を途中で辞めて放浪の末、出家した沙門。若手エリートが任じられる中で自然と選ばれたと言うのは無理があるのです。そのため、エリート中のエリートの僧職ではなく薬学を学ぶ事を口実として一団に入っていたのではないかという説もあるようです。また母方が皇室と縁があり、そのコネクションが生きたと言う話もありますが、いずれにしても、かなりギリギリのラインで滑り込んだ様子が伺えます。
こうして第十八次の遣唐使節団に加わった「空海」。この年、延暦23(804)年の太政官譜で4月7日出家と記録された時には教海ではなく空海とされています。空海は、遣唐使 藤原葛野麻呂と共に第一船に乗船、最澄は副使 石川道益と共に第二船に乗り込みます。当時の航海技術や造船技術での渡唐は非常に難事業で、概算で8割程度が唐に着けるものとされていました。が、この時の航海は当初から大荒れだったようで早々に第3船が肥前松浦郡で座礁遭難、第4船も遭難してしまい、空海の乗る第一船と最澄の乗る第二船だけが唐に辿り着くことができたのです。が、しかし、第二船は、明州へ入港できたものの副使の石川道益は病に倒れ客死、残りの一行は805年1月、徳宗の崩御と順宗の即位式に出会うことになります。当初から短期留学となっていた一行、及び最澄はこの年5月に明州を出港、7月に帰国しています。言わば副使の死と言う事件は不幸と、望外の皇帝即位にも出会えるという幸運にも恵まれ予定の行動であったわけです。では、正使である第一船は?と言えば、8月になって漸く福州へ漂着。ところが、長い航海でボロボロになっていたのでしょう。現地では役人に海賊の嫌疑をかけられ、50日間も待機させられてしまいます。これでは遣唐使としての勤めどころではありません。そこで葛野麻呂が福州長官へ日本から来た遣唐使であり長安へ向かう必要があるとの嘆願書を書いたのですが…、伝わるところでは、どうもこの内容が酷かったらしい…。悪文悪筆…つまりとても外国からの正規の使節団のものとは信用されず、釈放どころかますます海賊の疑いが濃いものとなってしまうのです。ここで天才が動きます。一回の僧侶くずれの薬学者見習いとも思われてた空海が嘆願書を代筆します。すると、一発で嫌疑は晴れ、無事に釈放、この年11月、日本を出て7ヶ月を経て長安入ができ、更に新皇帝 徳宗との謁見も果たす事ができたのです。なお、この嘆願書と同時に長安での留学嘆願書も書いた空海は留学期間を「20年」としていました。
翌年、前回、難破した第三船、第四船を送り出すため、また新皇帝即位の祝賀として18次遣唐使が派遣されます。これは概ね順調に旅程をこなし翌年の延暦24(805)年7月に帰国します。ところが…この帰国船に空海が乗っていたのです。しかも大量の経典と曼荼羅を持っての帰国です。これでは当初の20年とは話が違いすぎます。恐らく、何かの疑いを掛けられたのでしょう、都入りを足止めされてしまうのです。しかし、空海は表向き「旅費が底をついたので帰国させてほしい」と使節団の長 高階遠成を通じて上奏文を順宗に渡し、帰国の許可を得ています。後ろ暗いところは全くありません。では、なぜ、わずか2年で帰国したのでしょう。大学と同じように己の知的欲求を満足するに値しないと考えたのでしょうか。

唐における行動

唐に入って永貞元年(805年)2月、空海はまず西明寺を住まいとし、醴泉寺の印度僧 般若三蔵に師事します。ここで密教を学ぶために必須の言語「梵語」に磨きをかけました。これでまず、般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を授与されています。そして僅か三ヶ月後、5月になると密教の第七祖である青龍寺の恵果和尚に師事、約半年の修行に入ります。ここが一番のミラクルですが、この恵果和尚、空海が既に過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面で見抜きます。 この対面は偶然なものとも言われますが、インドの僧からサンスクリット語を学び、そこから密教の最高権威に合うと言うのは、予定調和とも思える段取りの良さとしか思えないミラクルです。しかも、恵果は「我先に汝が来ることを知りて相い待つこと久し。今日相い見ることはなはだ好し、報命尽きなんと欲すれども、付法に人なし。必ず須べからく速かに香花を弁じて灌頂檀にいるべし」つまり、空海が来ることを待っていた。そして会えたことは良いことで、この世での命は終わろうとしているが、相応しい弟子がいない。少しでも早く灌頂檀に向かおうではないか。ということでしょう。
出会って1ヶ月、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、そして続く7月に金剛界の灌頂を受けます。この灌頂と言うのは密教の正当な継承者とするための儀式で、幾つかの種類があるようですが、恐らく結縁灌頂と思われます。結縁灌頂は、どの仏に守り本尊となってもらうかを決める儀式で目隠しをして曼荼羅の上に華を投げ、その華の落ちたところの仏と縁を結ぶというもので、投華得仏とも言われます。空海は、金剛界、そして胎蔵界の曼荼羅で結縁灌頂を行い、それぞれで曼荼羅の中央に描かれた大日如来に華を落としています。これを恵果和尚も大喜びだったようです。そして、「南無大師金剛遍照」と言う御宝号にある「遍照金剛」はこの灌頂で贈られたものだそうです。
恵果和尚は当時1,000人以上の弟子がいたそうです。が、多くの弟子の中で伝法灌頂を受けられたのは空海を入れて6人。多く見積もっても0.6%、この6人を六大弟子と呼び、更に、金剛・胎蔵の灌頂を授かったのは、中国人の義明と空海のみ。0.2%の一人が出会って間もない空海だったのです。なお、義明は早逝してしまったので、恵果の正統を引き継ぐ唯一の担い手が、日本からやってきた若者、空海と言うのもミラクルです。そして、このときに青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人とも言われる人々を招き、感謝の気持ちとした宴席を設けています。もしかしたら、僅かの間に恵果の後継となってしまった事を妬む事を予防する意味も有ったのかもしれませんね。そして、この宴席が実利ともなったのでしょう。8月には、日本に持ち帰ることとなる曼荼羅や経典、密教法具を沢山の人が手伝って製作、書写が行われます。そして、恵果から伝法の印信である阿闍梨付嘱物、つまり仏法を教えた事の証として真言八祖の五代 金剛智 、六代 不空金剛、そして七代 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像など8点に、恵果和尚自身から健陀穀糸袈裟や供養具など5点、合わせて計13点をさずかります。そして「学んだ法をすぐに日本に持ち帰りそれを広めよ、その事こそ私 恵果への報恩となる」と言ったそうです。普通なら手元に置いて唐で密教を広めさせそうなものですが、深い智慧が言わせたのでしょうか、20年を過ごす予定の空海に即帰国を促したのです。なお空海は伝法への感謝として、恵果に袈裟と柄香炉を献上したそうです。そして、後代が決まって安心したのでしょうか、その年の12月15日、恵果は60歳で入寂します。まるで申し合わせたようなタイミングですね…。
この後、更にミラクルが起きます。越州に移り更に土木工学や薬学を学び、経典の収集を行った空海は、18次の遣唐使で難破した第三船、第四船の使節団を乗せ、そのリーダーに任命されていた遣唐使判官 高階遠成を通じて「20年の留学予定を短縮し2年で留学の滞在費がなくなったこと」を理由に唐の朝廷の許可を得てその帰国に便乗する形で、8月に明州を出航して、帰国の途についています。この「滞在費が無くなった」と言うのを表向きの理由とする考え方もありますが、500人の宴席や大人数での経典・仏具・曼荼羅の制作を考えると、寧ろ足りるほどの滞在費を持ち込んでいたんだろうか?と思うほどです。そして、この帰国便も時化に見舞われてしまいます。それでも五島列島の福江島に流れ着きます。何とか日本に帰国もでき、また唐で膨大な費用が掛かったであろう経典・仏具・曼荼羅も無事だったようです。これだけでもミラクルですが、もっと凄いのは、この後、遣唐使は19次として承和6(839)年に日本を発ち、承和7(840)年まで休止されます。そしてこれが最後の遣唐使でした。ということは20年の予定をそのままにしていれば、20年ではなく35年以上を唐で過ごさなくてはならなかったのです。もしかしたら恵果和尚は、この事も見越して早く帰国するように言ったのかもしれませんね。

帰国後の空海

まず20年の予定で送り出した僧侶が僅か2年で帰国し、それも大量の経典・法具・曼荼羅、更には阿闍梨付嘱物まで持ち帰ってきたのですから、これには朝廷も驚いたようです。いや寧ろ訝しんだのかもしれません。大同元年(805年)に博多に上陸した空海でしたが、朝廷は大同4(809)年まで入京を許さず、その間、太宰府に留め置かれたのです。そして、最澄の支援もあり、ようやく京へと向かうことになります。
この先には伝教大師 最澄との対立、香川県 満濃池の改修、高野山開山、東寺下賜、綜芸種智院など歴史に残る事が毎年のように続いていきますが、色々な不思議もあります。

空海の不思議

まず不思議なのは、何故、高野山が最大の拠点とされたのか?です。伝説では、唐を離れる際、三鈷杵を日本に向けて投げたと言われ、その三鈷杵は意志を持ったように飛んでいきました。帰国後、空海が真言密教を広める為の拠点とすべき場所を探しに国内を歩く内に、高野山の山中の松の木に自らが投げた三鈷杵を見つけたので、高野山に伽藍を築いたと言われています。東京では、世田谷山観音寺にこの子株なのか、三鈷の松が植えられていてます。普通、松葉は二股になっていますが、三鈷の松は三股になっているのが特徴で、身につけていると金運に良いとか、開運に繋がると言われています。
(同様の松は、時々神社でも「三つ葉の松」などと呼ばれて、同様にご利益があると言われていますから探してみると良いかも。例えば、甲府市の正ノ木稲荷 稲積神社にもあります)

全国にある弘法大師伝説

また、温泉や水源など、弘法大師由来のものが沢山あります。東京に近いところでは伊豆 修善寺が有名ですね。そして、仏像などを眺めていると「弘法大師作」と伝えられているものが各所で見られるのも不思議なことです。東北でも弘法大師の伝説が残されており、かつては「あの山は地主がお大師様に意地悪したから、芋が全部、石になる」と言う話を聞いたこともあります。こうして考えると、合理的なところではお大師様の弟子が各地で布教活動を行っている中で「弘法大師(の弟子)」のカッコの中が外れて作られた仏像はお大師様の作、習得した土木・地学の技術を使って温泉や泉の開発を行い、また師匠の御威光を示すために僧侶を大切にするような事を勧めていたのかと思います。TVで放送されていた水戸黄門が、史実と離れて全国各地を歩き回っていたのと同様な事と少し似ているような気がします。

弘法大師が人気なわけ

数多くの僧侶の中でも弘法大師 空海の人気はダントツと言えるのではないでしょうか?(真言宗以外の宗派の皆様には怒られてしまうかもしれませんが…)
その理由の一つは、スーパーマン的な数多くの伝説や史実、偶然(?)の積み重ねが挙げられると思います。弘法大師以前なら、聖徳太子や役行者にも聖人あるいは超能力者的な伝説がありますが、弘法大師ほど多彩かつ多岐に亘っていないように思えます。
また決して単なる天才ではなく、超人的な努力や周囲を惹き付ける魅力で業績を挙げていった事もあるでしょう。そして伝説・伝承の中の多くに慈悲に基づく、勧善懲悪的なものが多い事は、庶民にとってヒーローとして崇めやすいと思っています。
更には今も奥の院で修行をされている事を前提とした儀式が千年も続いている事もあるかもしれません。
そうした事が今現在、多くの派に分かれていながら全ての寺院を合計すると真言宗が最多となっている所以なのかもと考えています。

弘法大師 空海と仏閣

縁の神社仏閣

西新井大師:ご本尊として十一面観音と共に弘法大師を祀っています

川崎大師:ご本尊として弘法大師を祀っています

高野山 東京別院:ご本尊として弘法大師を祀っています