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荼枳尼天 だきにてん

仏教寺院のお稲荷様

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梵名

ダーキニー

真言

・のうまく さんまんだ ぼだなん きりかく そわか


・おん しらばった にり うん そわか (豊川吒枳尼眞天)

概要

 豊川稲荷の他、多くのお寺の境内にある稲荷社で祀られているのが荼枳尼天です。
このサイトでは街角で見かける小さな稲荷神社や祠を神社としていますが、その中には「豊川稲荷」と号されているものも少なくなく、日本の宗教史で長い期間行われていた神仏習合、本地垂迹によって日本の神様と仏教の仏様とが習合した中でも、最も同一視されやすい存在なのではないでしょうか。

由緒

 ヒンドゥー教ではカーリーの眷属で、カーリーに付き従い、敵を殺して血肉を食らう女鬼・夜叉女とされています。私達が知るお稲荷さんとは全くの別人格ですね。
 まだ大陸で仏教が発達段階にある中で、大日如来が姿を変えた大黒天が調伏し、死者の心臓ならば食べもよいという許しを得ます。そして大黒天は荼枳尼を降三世の法門により降伏し仏道に帰依させたそうです。その時、調伏された荼吉尼は神通力を自由自在に操り、人の死を6ヶ月前に察知し、その人が亡くなるまで加護し続けます。そして半年後に亡くなると、すぐさま心臓をとってこれを食べるといわれていました。この心臓が荼枳尼天が操る神通力には必要だったようです。
 時代が下り後期密教のインドでは、裸体に髑髏を女神像とされるようになります。
 更に時代が進み弘法大師が密教を日本に持ち帰ると、荼枳尼は胎蔵曼荼羅の外金剛院・南方に置かれるようになり、奪精鬼として閻魔天の眷属とされるようになります。当時は半裸の姿で血器や短刀、屍肉を手にする恐ろしい姿でしたが、後の閻魔天曼荼羅では薬袋らしき皮の小袋を持つようになり、さらに時代が下ると、半裸像は姿を変えて白狐にまたがる女天になり、この頃から荼吉尼に「天」が付くようになります。
 この白狐、つまりキツネが稲荷信仰との結びつきのキッカケだったようです。キツネは巣穴を掘りますが、これが墓所や古墳の場合、屍体を食うことが知られていました。死人の心臓を食べる荼吉尼との結びつきはここから生まれたようで、更に古来から狐を神使としていた宇迦之御魂神と結び付けられ、習合したと言われています。
 旧大名屋敷の邸内社に由来する稲荷神社は京極稲荷など多数残されています。商売繁盛の稲荷神と大名屋敷は、一見、脈絡を欠いているようですが、戦国時代、様々な武将が、その城の鎮守として荼枳尼天を祀るようになったようです。この時に期待された荼枳尼天の神通力…ご利益は怨敵退散を戦勝祈願だったそうです。

お稲荷さんは祟る(?!)

 元が人を喰らい、仏法に帰依しても死肉を食べる荼枳尼天。このためなのか、一種、異端の神として祀られる事もあり、そこでは「一度祀ると自分の命と引きかえに最後までその信仰を受持することが必須」とされていました。お祀りを止めただけで命の取引になるのですから、イタズラや誹謗をすれば「祟られた」となったのかもしれません。そして、これが荼枳尼天と習合された宇迦之御魂神、お稲荷さんにも波及して「稲荷の祟り」と言う話が時に聞かれる理由かもしれませんね。
 ただ、殊更にお稲荷様を祟る存在として考えるのではなく、神様や仏様に尊敬の念を持って接していくことこそ、大切なんじゃないでしょうか。

私見ですが

 街中でお稲荷さんの祠を見つけると、どうしても荼枳尼天(豊川稲荷:仏教)系か、それとも宇迦之御魂神(住吉大社:神道)系かが気になります。が、お寺の境内、あるいは隣接するような祠なら仏式で柏手を打たずに手を合わせ、近隣にお寺が無ければ豊川稲荷と書かれていても鳥居もあり、日本式の御礼、感謝のつもりで柏手を打ってお参りをしています。何も書かれていなければ?こんな私ですからデフォルトは神社としてお参りしています。

お姿

 一般には、大陸の女性の衣装を身にまとい、宝剣を持ち、白狐にまたがる姿が多いようです。

守本尊

なし

ご本尊としているお寺の例

豊川稲荷東京別院

ご利益など

開運出世、商売繁盛、財産形成、病気平癒