稲毛神社

御由緒

 創建は不詳ですが、古くは武褒槌神宮と称し、平安時代末期になって土地を領有していたた河崎冠者基家(秩父平氏)によって山王権現が勧請されてから「河崎山王社」「堀之内山王権現」「五社山王」「三社宮」と呼ばれ、古くから近隣の氏神として崇敬を集めてきた神社です。

 その歴史は第十二代天皇、景行天皇の東国巡幸で御祭神の威徳によって賊難を避けたという記録が見られます。この東国巡幸は息子である日本武尊命の死の翌年、即位53年とされますので、西暦に置き換えると123年頃となるのでしょうか。その頃には既に鎮座していたことになりますね。
 時代が下って第二十九代天皇の欽明天皇の御代には、東国の動乱鎮撫のため勅幣が送られ、この時、経津主神・菊理媛神・伊弊諾神・伊弊再神が祀られたとされます。天皇は6世紀頃の在位とされますから、これでも1400年程度の歴史があるのです。そして、ここから勅願所として崇敬を集めたようです。
 鎌倉時代には将軍家から社領七百石が与えられます。そして佐々木高綱が頼朝の命を受けて社殿の造営に当っています。この佐々木高綱、源頼朝が平家打倒の挙兵に当たっては頼朝がピンチに陥ったときに、これを救うなど数々の論功を打ち立てた猛将でした。鎌倉幕府が成立すると多くの恩賞地を与えられてもいますが、後には東大寺再建の任に当たるなど、戦乱が落ち着いた後は政治家、指導者としても重責を担っていたようです。その館は現在の港北区烏山の鳥山八幡宮近くにあったようですから、高綱所縁と言われる社寺が多い中でも、かなり確度の高い伝承と思われます。またちなみに、この高綱の次男、光綱が陸軍大将 希典を輩出した乃木家の祖だとされています。
 このように、時代の権力者から崇敬されてきた神社でしたが、室町時代に入ると、将軍家が敵視した新田氏と神職との関係が深いという理由で社領を削られ、天正年間の検地水帖には「山王神領二十一石余」と記されています。
 この冬の時代を乗り越えた神社は、江戸時代に入り、太平の世に移るに連れて、社家九家、社人十三軒と再び勢いを取り戻します。そして旧暦6月15日に行われた例大祭は「東の祇園」とも言われたほどでした。

 さて、山王権現などとも呼ばれていた神社が稲毛神社となったきっかけですが、それは幕末、慶応4年にさかのぼります。山王権現という社号、天台宗系の山王一実神道と言う神仏習合の考えに基づいているのです。そこに江戸御征討のため下向途中の官軍総督 有栖川宮熾仁親王殿下がご休憩に立ち寄られます。そして「御社名、新政府の神仏分離の方針に相応しからず」と話されたそうです。この言葉は重く、地名である稲毛庄から稲毛神社と改称したのでだそうです。

神社概要

【御祭神】主祭神:武甕槌神
   配神:経津主神、菊理媛神伊弉諾神伊弉冉神

【社殿】鉄筋コンクリート 神明造

【鎮座地】 神奈川県川崎市川崎区宮本町7-7

【アクセス】JR 川崎駅から徒歩9分

【創建】不詳

【社格】旧郷社、別表神社

【境内社】佐佐木神社、浅間神社、大鷲神社、和嶋弁財天社、堀田稲荷神社・第六天神社、子神社

【例祭】8月2日以降最初の土曜日-8月2日以降最初の日曜日

【氏子】

【ご朱印】 あり

※ 健勝堅固、和勝、大鳥神社-日本武尊の三種の他、期間限定あり

【ご朱印帳】 あり

【HP】 オリジナル

【SNS】 なし

地図

神社お得意のご利益

人生の試練・困難に勝ち、病気に打ち勝つ力。和の心

ひと足伸ばして

ギャラリー

参拝記

 いつものごとく…予備知識が薄いままの初参拝。まず驚いたのが境内の広さ、広々とした中に、なにか塊のように社殿や境内社が並びます。そして、その社殿前には独特の姿をした「天地睨みの狛犬」が目を引きます。この作者は籔内左斗司氏。そう「せんとくん」の製作者ですね。いい感じです。