目次
川越八幡宮
心のオアシス
御由緒
創建は長元3(1030)年と伝えられる川越八幡宮。
その謂れとして、長元元年(1028)年に起きた戦乱を取り上げる必要があります。長元の乱、あるいは平忠常の乱として知られる戦乱は平将門の乱以来と言われる大きな戦いでした。
長元元年(1028年)6月、上総国、下総国、常陸国に父祖以来の広大な所領を有していた平忠常は安房守 平維忠を焼き殺します。この経緯は不明ですが、勢いづいた忠常は上総国の国衙を占領し、上総国の国人も忠常に加担する形で房総三カ国が争いに巻き込まれます。
これに対し朝廷は後一条天皇の裁可により検非違使右衛門少尉の平直方と検非違使左衛門少志の中原成道に追討使を任じます。直方は貞盛流の嫡流で、同じ忠常が属する良文流平氏とは長年の敵対関係だった貞盛流の常陸平氏と連携していました。また、この頃、源頼信が甲斐守に任じられている。これで忠常は朝敵となります。
しかし追討使の中原成道は関東への道中、母親の病を理由に美濃国で進軍を止めます。これも理由だったのか成道と直方が対立関係となり忠常の平定は進みません。続く長元2(1029)年2月、業を煮やした朝廷は東海道、東山道、北陸道の諸国に対して忠常追討の官符を下して討伐軍を補強させます。しかし勅命を受けた討伐使がまともに動かないのですから平定できるわけがありません。ついに同年12月に都への報告が滞ったとして成道が解任されます。
一方、長元3(1030)年3月、忠常は安房国の国衙を襲撃し安房守藤原光業を追放しています。朝廷は後任として平正輔に任命しますが、正輔は同族の平致経と抗争をおこなっており、勅命に従って安房国へ移ることは出来ません。朝廷の緩慢な動きの中で忠常の乱は次第に泥沼化し、それと同時に安房三国の疲弊は深まります。
ついに朝廷は平直方の代わりに甲斐守源頼信を追討使に任じます。勅命を受けた充分に準備を整えた上、更に忠常の子の一法師をともなって下向します。その中で頼信のは、川越八幡宮がある場所で必勝祈願を行ッタと言います。対する忠常も幾ら敵方の失策が連続しているとは言え、配下の軍には疲労が蓄積しています。長元4年(1031年)春、頼信が上総国へ出立しようとした頃、忠常は出家、子と従者をしたがえ、あっけなく頼信に降伏してしまいます。これには忠常がかつて頼信の家人だったことが理由とも言われています。
乱を平定した頼信は御神威に深く感謝し、八幡神社を創祀したのが川越八幡宮の創建だと言います。
長禄元年(1457年)に太田道灌により川越城が完成します。太田道灌もまたこの神社を篤く崇敬しており、分霊を川越城内の守護神として奉斎しています。
これ以後の歴代の川越城主、城代から深く崇敬を受けた川越八幡宮ですが、その中でも酒井氏一族からは特に篤く崇敬され、社殿の造営、神田、神宝の寄進が相次ぎ、その後、国替えがあった後も酒井氏からは改築費、修繕費等の奉納が行われたと言います。
お気に入り度
★★★
雰囲気
★★★
アクセス(駅近、駐車場など)
★★★
神社概要
【御祭神】 応神天皇
【社殿】
【鎮座地】埼玉県川越市南通町19-3
【アクセス】 JR川越駅から徒歩約6分
西武新宿線 本川越駅より徒歩約7分
【創建】 長元3年(1030)
【社格】
【境内社】 民部稲荷神社、目の神様(祭神 大国主命、少彦名命)、ぐちきき様
【例祭】10月14日-15日
【氏子】
【ご朱印】 あり
※ 特記なし
【ご朱印帳】 あり
【HP】 オリジナル
【SNS】 Facebook
地図
神社お得意の御利益
- 安産祈願
- スポーツ必勝(民部稲荷神社)
- 足腰健康(民部稲荷神社)
- 縁結び(縁結びイチョウ)
- 目の健康(目の神様)
- 厄除け方位除け(厄除桃 & 御神木のしだれ桃)