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目次
笠間稲荷神社 東京別社
紋三郎稲荷の東京別社
御由緒
寛永年間、牧野成貞という侍がいました。彼は旗本の家の三男として生まれ、まだ将軍になっていない庶子の頃の徳川綱吉に近習として仕えます。綱吉が分家として館林藩主となると奏者番として付き従っていきます。綱吉には気に入られていたのでしょう、10年ほど経つと館林藩家老に任ぜられます。家老というと白髪頭でうるさ型の老人を思い浮かべてしまいますが、この時、満年齢で35歳ほどですから抜擢人事といえるでしょう。
さて、綱吉はこの後、将軍へと登りつめるわけですが、成貞は常陸国内の大名へとなり、更に「御側御用人」と言う役も得て綱吉の最側近となるのです。そして綱吉から下屋敷として21,269坪という広大な敷地を拝領して現在の久松警察署前の小川橋、蛎浜橋辺から隅田川までに広大な下屋敷と庭園・泉池を設け、築山に稲荷神・山王神・八幡神を祀りました。
成貞が隠居、没した後、延享4(1747)年に成貞の長男である貞通が京都所司代から常陸笠間に転封されます。そして笠間藩主として茨城の笠間稲荷神社(別称 胡桃下稲荷神社)を祈願所とするようになります。
ここから笠間藩主牧野家の祈願所となった笠間稲荷を第8代藩主 貞直が安政6(1859)年、分祀して江戸下屋敷内の稲荷社に合祀奉斎します。その場所が現在の笠間稲荷神社 東京別社の鎮座地です。今ではいつでも誰でも参拝可能ですが、当時は大名の下屋敷。江戸の町民がたやすく参拝できるはずがありません。そこで笠間藩では初午の日に日本橋界隈の町民に参拝を許可し、賑わいを見せたと言いいます。
廃藩置県が行われ、牧野家の屋敷も移転を余儀なくされます。そこで屋敷は本所緑町へ移転するのですが、日本橋の人々に親しまれた神社は明治21(1888)年に栃木の笠間稲荷本社が奉祀する事となりました。これは牧野家の依頼によるものだと言われています。なかなか粋な計らいですね。
しかし大正12(1923)年9月の関東大震災で社殿は火災により焼け落ちてしまいます。近隣の協力もあり、直ぐに再建できたのですが、続く戦災、昭和20年3月10日の東京大空襲でまたも焼け落ちてしまったのです。
それでも、同じ年の8月に戦争が終わったばかりの12月、栃木の本社の援助を受けて本殿は再建、昭和28(1953)年9月に拝殿も再建され今の姿へと蘇ってきたのです。
本社の笠間稲荷は落語「紋三郎稲荷」でも知られ日本三大稲荷の一つにも数えられる商売繁盛・五穀豊穣のご利益に預かれる神社です。日本橋には沢山のお稲荷さんがありますが、そんな中でも日本橋の人々がありがたいと信じて賑わったのですから、今でもそのパワーは残っているんでしょう。とは言え、とても静かな素朴な雰囲気のある今の姿は、何か本社の香りを伝えているような気がします。
お気に入り度
★★★
雰囲気
★★★
アクセス(駅近、駐車場など)
★★★★★
神社概要
【御祭神】 宇迦之御魂神
【社殿】
【鎮座地】 東京都中央区日本橋浜町2-11-6
【アクセス】 東京メトロ、都営地下鉄 人形町駅から徒歩5分
都営地下鉄 浜町駅から徒歩3分
【創建】 安政6年(1859)
【社格】
【境内社】寿老神社
【例祭】 5月5日
【氏子】
【ご朱印】 あり
※ 日本橋七福神の御朱印も受領可
【ご朱印帳】 なし
【HP】 オリジナル
【SNS】 なし
地図
神社お得意のご利益
商売繁盛、五穀豊穣