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鐵砲洲稲荷神社

中央区唯一の「富士塚」あります!

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御由緒

 平安時代に創建されたという非常に長い歴史を持つ鐵砲洲稲荷神社。
 当時、凶作に苦しんだ荏原郡桜田郷の住民が産土神を生成(いなり)太神として祀ったことに始ったと言われています。
 その後、入江の埋立に伴って京橋へと遷座して、室町時代末期の大永年間(1521年-1528年)には現在の銀座一丁目付近へ遷座して「八丁堀稲荷神社」と呼ばれるようになりました。 
 江戸時代初期の寛永元年(1624年)には桜川と亀島川との合流点である、稲荷橋南東詰(現在の湊1丁目8番地付近)へと遷座します。この際、元々鎮座していた八幡神社をこの稲荷神社の摂社としています。
 今は暗渠になったり、埋め立てられて目立たなくなりましたが、江戸時代の江戸の街は水運が盛んで、お堀や運河、河川が網の目のように入り組んでいました。そして、この稲荷橋付近は水運の要衝となっていたため、近隣だけではなく、各地からやってきた船乗りの崇敬も集めたそうです。
 寛政2(1790)年には当時盛んだった富士講により、富士塚が築造されて、ますます賑わうようになったそうです。この富士塚、その後も繰り返される遷座の度に移築され、結果、現存する区内唯一のもので、毎年7月1日の山開きの日には登頂することができるそうです。
 江戸時代後期、吉田家により湊神社と名付けられ、俗に「浪除け稲荷」とも呼ばれるようになります。幕末の歌川広重が筆を執った『名所江戸百景』では、「鉄炮洲稲荷橋湊神社」とされています。
 明治に入るとすぐ元年(1868年)に土地収用が行われたことから、120m程南にズレた現在地に落ち着くことになりました。
 大正12(1923)年、関東大震災による被害は大きく、昭和10(1935)年になってようやく本殿や神楽殿が再興されるに至り、現在の姿になっています。つまり、幸いにも、この近辺全てが焼き尽くされた東京大空襲の被害を奇跡的に逃れたわけです。このため、昭和初期の建築様式を伝える貴重な史料とも言えるでしょう。

私見ですが

 調べるまでは鉄砲洲で平安時代と言われてもピンと来るものが無かったのですが、遷座を重ねて現在地に至ったことを知ると、どれだけの人たちが、この神社に思いを寄せてきたのか、想像もつかないくらい重い歴史を感じさせる内容です。
 現在は、近隣に公園もあり、とても明るい公園と重厚な神社境内とが好対照に感じられる場所です。

お気に入り度
 ★★★
雰囲気
 ★★★★
アクセス(駅近、駐車場など)
 ★★★★

神社概要

【御祭神】 稚産霊神、豊受姫大神宇迦之御魂大神

【社殿】

【鎮座地】 東京都中央区湊1-6-7

【アクセス】JR・東京メトロ 八丁堀駅から徒歩4分
      東京メトロ 銀座駅から徒歩11分

【創建】 承和8年(841)

【社格】旧郷社

【境内社】八幡神社、富士浅間神社

【例祭】 5月2日-5日

【氏子】湊1丁目-3丁目、入船1丁目-3丁目、新富1丁目-2丁目、明石町、銀座1丁目12-28、2丁目10-16、3丁目9-15、4丁目9-14、5丁目11-15、6丁目13-18、7丁目12-18、8丁目12-21、新川2丁目28-31(各一部)

公式サイトでの案内

【ご朱印】あり

※特記なし

【ご朱印帳】 なし

【HP】なし

【SNS】 なし

地図

神社お得意のご利益

五穀豊穣、金銀富貴

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