森厳寺

御由緒

 開基は、徳川家康の側室の子、結城秀康。側室の子とは言え、家康との最初の対面は3歳になってから、それも冷遇ぶりが目に余ったのか、兄である松平信康による取り計らいにより実現したと言われています。
 その後は、徳川の後継となるどころか、豊臣秀吉の養子にされています。長久手の戦いの収束に向けた講和条件として、いわば人質だったとも理解できます。ですが、秀吉は文武に優れた秀康を高く評価したとも言われています。しかし、ここでも秀頼の誕生により、再び養子に出ているのです。それが、結城家です。
 天正18年(1590年)、実の父である家康が元の北条領、関東へ国替えと同時に240万石を得ます。この前年、北条氏討伐が行われ、それに対する功労とも言われますが、一方で故郷である三河の土地が失われたことから、実質は秀吉による家康への冷遇とも言われています。しかし、ここで特筆すべきなのが秀康に対する処遇です。秀頼誕生により豊臣後継という目はなくなりますが、一方で、北関東で守護も勤めた名家、結城氏の婿養子とされました。これで結城の所領11万1,000石を継ぎ、また羽柴姓を貰い受け、官位から羽柴結城少将と呼ばれるようになっています。これを家康に対する+αの加増とする見方もあるのですね。
 秀吉の死後、関ヶ原の役では、石田三成と懇意な上、家康と対立する上杉景勝を牽制する留守居の役目を与えられます。そして無事、この大役をこなした秀康は越前六十七万石の藩主となりました。これ、単なる国替えでは無いようです。秀康は結城家にとっては外様の養子です。結城古参の家来の多くは転地に対し、反対拒否する者が多かったと言われます。結果として、旧来の土地から引き離されたことで、秀康を新参者扱いする事がなくなり藩内の基盤が強化されたのです。
 このように、常に権力者の力が作用し、揺れ動いた生涯を過ごした秀康は、結果、越前を終の棲家とすることになります。そして臨終に際し、江戸の地に一寺を建立し、自らの位牌所とせよと命じました。この遺命を託された一乗院の住職、万世和尚は高齢の自身に代わり、弟子の清譽存廓上人に託し、建立したのが森厳寺。となるのです。建立された森厳寺は、北沢八幡神社の別当寺となり、近隣一帯は天領とされています。このように、徳川家所縁の寺院として扱われているため、現在でも三つ葉葵の御紋が境内のあちこちに使われています。
 山号は、北澤八幡神社から「八幡」を使い、院号は秀康の法名「浄光院殿森巖道慰運正大居士」にちなんで「浄光」としています。寺号も同じく法名から「森厳」を使っています。

 山門『粟嶋の灸』の看板があります。これは、かつて境内の淡島堂で施灸が行われていた名残だそうです。現在の淡島堂は天保7年に造られたものですが、それより遥か前、初代住職清譽存廓上人が腰痛に悩まされている最中、故郷である紀州の淡島様が夢枕にって、お灸を据えるように言われたのだそうです。その言葉に従って灸をすると、すぐに全快。そのいわれから、森巖寺の淡島堂はお灸のメッカになっていたようです。

寺院概要

【山号/院号】 八幡山/浄光院

【宗派、御本尊】浄土宗/阿弥陀如来立像

【所在地】 東京都世田谷区代沢3-27-1

【アクセス】 小田急線、京王井の頭線 下北沢駅から徒歩8分
       京王井の頭線 池ノ上駅から徒歩8分

【開山】 慶長13年(1608)

【ご朱印】 あり

※  特記なし

【ご朱印帳】 なし

【HP】 オリジナル

【SNS】 なし

地図

お寺得意の御利益

女性や子供に関するありとあらゆるご利益を授ける守り神(淡島堂)、芸術、智恵、寿命、財宝等を与える(弁財天)

ひと足伸ばして

ギャラリー

参拝記

 墓所も入れるとかなり大きな森厳寺。世田谷区内屈指の大きさのお寺で、なんとなくご存知の方も多いと思います。下北沢に隣接する立地ですが、住宅地に近く、境内は静かな静かな雰囲気なんですよねぇ。以前から「粟島の灸」と三つ葉葵は、不思議だったのですが、今回の参拝を機に少し調べてみて、謎が解けた気がします。