常行寺 (常行三昧寺)
大井の大仏(おおいのおおぼとけ)
御由緒
いわゆる「寺町」の風景が続く中にある常行寺。実際、京浜急行の北品川駅と青物横丁駅間に28の寺院があるそうで、多くは江戸幕府により、この一帯に集約されたとのことです。その理由の一つが、東海道が江戸の市街へと通じる入り口に位置する交通の要衝だと言うこと、そして江戸ご府内の都市計画で寺社を府外へ移転する必要があったためでした。
常行寺は上記のように「常行三昧寺」とも呼ばれます。実は、こちらが正式な寺号で、慈覚大師が「父母の恩に報いるため常行三昧を修する」事を目的として建立したと言われるお寺なのです。
横川中堂の建立後、母の病が重い事を知らされた慈覚大師は、東海道を通って故郷である下野へと向かったのですが、その途中、品川大井村で母の死去を知らせる使者と出会います。そして、そこに堂を造り常行三昧を修して母の冥福を祈られたというのがお寺の歴史の始まりです。つまり、大井からお寺の歴史が始まっているのですね。なお、慈覚大師が使者に出会った嘉祥元年(848)10月16日を開山の日としているそうです。
長保年間(1,000年頃)恵心僧都が住職をしていた時代には、武蔵国から相模国にかけて500ケ寺余りの末寺があったと伝えられるほど寺勢があったようですが、鎌倉時代に入ると、その勢いも衰え若干の寺領だけになってしまいます。そして文安元年(1444)から大永6年(1526)の間は戦乱の影響もあり、住職もいなくなってしまい、寺号だけが残されるというまでになってしまいました。
大永7(1527)年、旧蹟が絶えた事を知った實海僧正により再興され、この事から實海僧正を中興の開山としています。
こうして慶長の頃までは高い寺格とされたのですが、東叡山が草創されると常行寺は東叡山寛永寺の末寺とされるようになります。
更に承応2年(1653)、幕府の命によって大井から現在地へと移転されたのですが、宝永年間、享保年間の幾度か罹災していまい、大切な諸書物等を焼失してしまいました。
なお現在の本堂は享保年間(1716-1736)に再建されたものとされています。
お気に入り度
★★
雰囲気
★★★
アクセス(駅近、駐車場など)
★★★
寺院概要
【山号/院号】 熊野山/父母報恩院
【宗派、御本尊】天台宗/阿弥陀如来
【所在地】 東京都品川区南品川2-9-18
【アクセス】京浜急行線 新馬場駅、青物横丁駅から徒歩5分
東急バス 渋谷41系統 (渋谷~大井町) 南馬場から徒歩5分
【開山】 嘉祥元年(848年)
【ご朱印】
※ 特記なし
【ご朱印帳】
【HP】 天台宗 東京教区
【SNS】 なし