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養玉院 如来寺
大井の大仏(おおいのおおぼとけ)
御由緒
養玉院 如来寺の始まりは2つの別々のお寺でした。まず古い方の養玉院は、公式サイトによれば
金光山養玉院大覚寺といい、その創建は 、古くは平安時代まで遡るとされるが、明確な史料はのこされていない。「江戸名所図会」 や「寺社書上」によれば、養玉院は、 もとは三貌院 (さんみゃくいん)「その後、三明院」という寺院であった。慶長年間(1596一1615) に江戸幕府の開府と江戸城周辺の都市計画工事に よって移転するまでは、大手(千代田区 大手町)の辺りに位置していたといい 比叡山や日光山を復興し徳川将軍家か 三貌院の移転先は上野山内であったと伝えられる。
公式サイト(養玉院の歴史)より
と非常に古いお寺です。もう一方の如来寺は
帰命山如来寺大日院といい、寛永13年(163の3月19 日に木食但唱(1579 一1641)により 弟子達と共に造った五智如来像を安置して開かれた。 建立地は、泉岳寺に近い高輪(港区高輪)の、東海道沿いで人の 往来が多くにぎやかな地で、 海に面した好立地であった。像高が一丈(約 3.3 メートル)もある五智如来像が五躯並ぶ姿は、江戸の人々から注目を集め、「芝大仏」 と呼ばれて親しまれた。 その様子は「江戸名所記」や「江戸雀」な どさまざまな案内記や浮世絵に描かれており、名所として知られていた。 万治年間(1658 一1661) 頃の絵図には如来堂、仁王門、鐘楼が描かれており、 また、「江戸惣鹿子名所大全」が 出版された元禄3 年(1690)の頃は五智如来像のほか観音菩薩や閣魔王像の名所でもあったことが伝えられる。
公式サイト(如来寺の歴史)より
こちらは江戸時代からの歴史です。
両方のお寺は、書かれている通り現在地では無いところに建立されていますが、如来寺は明治41(1908)年に現在地へ、養玉院も大正11(1922)年に隣接地へと移転しています。そして、大正15年(1926年)、この2つのお寺は合併して現在へと至ります。
お寺に参拝すると「大井の大仏」という立て札が目に入ります。この「大仏」は「だいぶつ」ではなく「おおぼとけ」と読むのですが、鎌倉の大仏のように屋外にあったり、一尊で安置されているものとは異なります。
その答えは本堂の更に奥にある「瑞應殿」の中にあります。瑞応殿は正面からは入るどころか中を伺うこともできません。しかし向かって右手脇の引き戸は拝観時間内であれば解錠されているようで、中に入ることが可能です。すると、そこには金色に輝く五尊の仏様がいらっしゃいます。入口側から、薬師如来・宝(勝)生如来・大日如来・阿弥陀如来・釈迦如来の順で並ばれている仏様たちは、あまり目にすることのできない五智如来です。
この五智如来、如来寺の開山であり、作仏家でも知られる木喰但唱によって作られたと言われています。通常、特に3mを超える大仏の創作は現地や現地付近で行うものだと思うのですが、どうやら、この五尊は長野で作られたようです。バラして運んだにしても、途方も無い事業だったことは想像に難くありません。
残念ながら、五尊のうち薬師如来を除く四尊の如来像は享保10(1725)年、延享2(1745)年に起きた二度の火災で焼失してしまい、現在見られるものは延享3(1746)年頃に再興されたものだそうです。
静かで薄暗い瑞應殿ですが、感応式の照明が入っていて、足を踏み入れれば美しい仏様たちが浮かび上がるように目に飛び込んできます。
なお、荏原七福神の布袋尊になっていて、境内の坂道で石造りの布袋様がニコヤカに待っています。
お気に入り度
★★★
雰囲気
★★★★
アクセス(駅近、駐車場など)
★★★
寺院概要
【山号/院号】 帰命山/養玉院
【宗派、御本尊】天台宗/釈迦如来
【所在地】 東京都品川区西大井5-22-25
【アクセス】JR横須賀線、湘南新宿ライン 西大井駅から徒歩10分
都営地下鉄 浅草線 西馬込駅から徒歩7分
【開山】 平安時代
【ご朱印】 あり
※ 大日如来の他、七福神(布袋尊)の2種あり
【ご朱印帳】
【HP】 オリジナル
【SNS】 なし
地図
お寺得意の御利益
参拝記
2021.5。五智如来を拝観したくて参拝した甲斐がありました。
寺の南東側にある馬込の諏訪神社からの坂道を乗り越えつつ、寺を一望できる階段に差し掛かると、想像よりも遥かに大きな伽藍が目に入ります。
アップダウンの多い場所ですし、境内も坂道になっています。少し足を鍛えるつもりで参拝してみてください。