目次
浅草寺
東京名所の代表格
御由緒
「ベタ」と言われるほどの東京名所の浅草寺。
飛鳥時代の推古天皇36(628)年3月18日の早朝、宮戸川と呼ばれた隅田川のほとりに暮らした檜前浜成、竹成兄弟が投網漁をしていると、その中に一躰の像が入っているのに気づきます。しかし無学な兄弟は仏像のことを良く知りませんでした。そのため、像を水中に投げ戻し、そして場所を移して網を投げ込みます。ところが不思議なことに、魚は全く獲れず、代わりに毎回、投げ込む網の中に先程投げ捨てた像が掛かってくるのです。兄弟は仕方なく仏像を持ち帰ることにしました。兄弟は、念の為、土地の長の土師中知に像を見てもうと、その像が聖観世音菩薩の尊像だと判ったのです。これがご本尊が世に現れた初めです。そしてその日、一夜にして辺りに千株ほどの松が生えてきました。
翌朝、里の子どもたちが草でお堂を作ってくれたので観音さまをお祀りすることにしたのです。土師は「御名を称えて一心に願い事をすれば、必ず功徳をお授けくださる仏さまである」と観音像を拾い上げた浜成・竹成兄弟、そして里の人達に告げたのです。そして、3日後には天から金龍が突如現れた松林の中に降りてきたと言います。
そして土師は、この後、自宅を寺にし、そして観音さまの礼拝供養に生涯を捧げるようになりました。因みに金龍が降りた奇跡を瑞兆として山号は「金龍山」、浅草寺の寺舞にも「金龍の舞」があります。
やがて大化元年(645年)には、勝海上人という僧が立ち寄ります。勝海が観音堂を改修していると、ある晩、観音さまが夢に現れ「みだりに拝するなかれ」と告げられます。現在も絶対秘仏とされる観音像ですが、この夢がきっかけになったのです。
平安初期、天安元年(857)には比叡山から第3世天台座主の慈覚大師円仁来山してきます。秘仏が人の目に触れない中で、その代わりになっている「御前立」は、このとき、慈覚大師が謹刻されたものと言われ、慈覚は中興開山と仰がれるています。
長久2(1041)年12月22日、大地震が起きたと言われます。これで浅草寺のほとんどの堂舎が倒壊し、沢山の信仰を集めた境内も荒んだ状態になってしまいました。しかし、これを見た寂円上人という修行僧が、この惨状からの再建を志し10年近い歳月を掛けて本堂の落成にこぎつけました。ところが、この本堂、わずか28年後、承暦3(1079)年12月4日、炎上、焼失してしまいました。こうなると絶対秘仏のご本尊が心配です。ところが、御本尊は本堂の西にあった榎の梢に自ら避難されたという故事が遺されています。
仁安4(1169)年、学頭の用舜上人が中心になって、大規模な浅草寺再建が行われます。しかし、規模の大きさなどから資材を集めるだけでも大変な事業だったと言われます。すると用舜上人は聖観音の秘法を使って大雨を降らせたそうです。この大雨は隅田川の水量を増やし、川上で切出された木材が隅田河畔に流れ着き、難なく用材を確保できたと言います。
このように、災厄に遭いながらも、数々の霊験が起きた事は浅草寺の名を更に高めました。その中の一人が、後の鎌倉幕府の初代将軍 源頼朝の父 義朝です。義朝は、ご本尊が火災を避けた大榎から作られた「榎観音」を奉納します。この観音像は今も毎年1月に行なわれる「温座秘法陀羅尼会」のご本尊として拝まれています。
鎌倉時代は、この地域には大きな転機だったのかも知れません。というのは「浅草」という地名が初めて残されたのがこの時代に編纂された『吾妻鏡』です。この中で建久3(1192)年、鎌倉での後白河法皇四十九日忌に、浅草寺から僧侶3名が出仕したことや、建長3(1251)年、浅草寺の食堂に暴れ牛が飛び込んできて怪我人がでたことなどが書かれているため、浅草寺の重要性や幕府からの信仰などを窺い知ることができます。また鎌倉時代初期、関東に三十三観音札所が整えられますが、浅草寺は都内唯一となる第十三番霊場と定められました。
室町、戦国を過ぎ、天正18(1590)年、徳川家康が江戸に入府してきます。家康の側近でありアドバイザリー的な立場にあった「天海僧正」が浅草寺を祈願所とするよう進言します。これは、浅草寺の位置が江戸城の鬼門にあり、また天海が属した天台宗の名高い古刹であり、そして源頼朝の時代から源氏の信仰を集めてきたことなど、様々な理由が挙げられます。
関ヶ原の戦いの直前、慶長5年(1600)9月1日には家康により浅草寺から中興第1世 忠豪上人が江戸城に呼び出されます。その目的は頼朝の平家追討と同様の祈祷の以来でした。忠豪は古式に則り観音密供を行います。結果は皆様御存知の通り、家康の東軍が勝利をおさめています。そしてこれが、浅草寺の霊験の評価が更に高まる機会となりました。
しかし、ここから浅草寺の栄光に影が差してきます。寛永2(1625)年、徳川幕府の安泰、万民の平安の祈願寺として上野に寛永寺が建立されます。幕府直轄な上、第3代以降の山主には皇室から輪王寺宮と呼ばれる法親王が迎えられるなど格式も高い扱いを受けるようになりました。一方、浅草寺は貞享2(1685)年に別当 忠運上人が5代将軍 綱吉から不興を被ったと退寺させられてしまいます。そして、これ以後、寛永寺の配下に組み込れてしまうのです。元文5(1740)年からは輪王寺宮自身が別当職を、そして代理人である別当代が実質上の総責任者として浅草寺を統括する体制となり、幕末まで継承されていきます。但し、一種の名誉職であるとは言え、別当職が皇室からの輪王寺によって務められたことは、浅草寺の重要性を知らしめる事に繋がっていたとも言われます。
過去にも火災で大きな被害を受け続けた浅草寺ですが、江戸時代になると人口増加に伴って更にリスクが高まります。かつてはご自身で避難したご本尊ですが、流石に毎回、自己責任にもできません。そこでご本尊と御前立を持ち出す手順が慣例として纏まってきます。
火災発生
非常用のお輿にご本尊、そして御前立を奉安
安全な方向の寺院に向けて避難
鎮火確認
一刻の猶予もおかず本堂へご帰座
この際の護衛には飛鳥時代以来、寺に仕える土師、そして檜前兄弟の子孫が3人、そして寺侍数名の約10人が当たったと言います。なお、第二次大戦での東京大空襲では、前もってご本尊はは本堂の地中約3mのところに埋めた青銅製天水鉢の中に安置され、本堂焼失でもご本尊はご安泰でした。なお、この青銅製天水鉢は今も淡島堂境内に残されています。
戦後、昭和26(1951)に本堂再建が始まります。まだ復興の中にあり貧しい時代でしたが、天皇陛下からご下賜の金一封、そして信徒からの協力もあって7年後の昭和33(1958)年、落成しています。更に昭和35(1960)年、浅草名物の雷門が松下電器産業社長の松下幸之助の寄進で雷門が再建されますが、これは慶応元年(1865)の焼失以来95年ぶりという歴史的な再現となりました。昭和39年(1964)には大谷重工業・大谷米太郎ご夫妻の寄進によって宝蔵門が再建されいます。
さて、冒頭でも書いた浅草寺のご本尊、聖観世音菩薩ですが、世間の生きとし生けるものの音声を観じ、その苦しみを除かれ、また願いを聴いて安楽を与えてくださる仏さまとされています。観音様は様々な像容があり、また造立の目的も多岐に渡るのですが、こちらの聖観音はその基本形とされています。そして、勝海上人が夢で告げられて以後の絶対秘仏化は、上人が定めた秘仏の制が掟として守られてきました。それは幾重にも厨子に固く錠をかけ、住職でさえも尊容拝見を慎んでいると言う状態です。一説にご本尊の大きさが「一寸八分」(約5センチ)と言われますが、これは江戸時代以来伝えられた俗説のようです。
お気に入り度
★★★★
雰囲気
★★★★
アクセス(駅近、駐車場など)
★★★★★
寺院概要
【山号】金龍山
【宗派、御本尊】聖観音宗(天台宗系単立)/聖観音菩薩(絶対秘仏)
【所在地】 東京都台東区浅草2-3-1
【アクセス】 東武スカイツリーライン 浅草駅から徒歩5分
東京メトロ 浅草駅から徒歩5分
つくばエクスプレス 浅草駅から徒歩5分
都営地下鉄 浅草駅から徒歩5分
【開山】 推古天皇36年(628)
【ご朱印】 あり
※ 特記なし
【ご朱印帳】 あり
【HP】 オリジナル
【SNS】 なし