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境稲荷神社
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御由緒
東大のほど近くにある境稲荷神社。いわゆる「ついで参り」の状況で初参拝を行った神社です。と言うのも上野公園内の神社仏閣を巡ろうと園入り口の地図を見て目に入った鳥居マークに目を惹かれたことがキッカケだったのです。
さて、余談は一旦、ここまでにして、境稲荷神社の御由緒です。創建は文明年間と言われ、室町幕府の九代将軍 足利義尚によるものと伝えられています。
社号の「境」は、忍が岡と向が岡の境界鎮座していることが由来とされ、双方の村の総鎮守とされていました。
寛延3(1750)年、近隣にあった松平邸が火元となった火災で社殿、義尚公自筆の扁額など社宝、古文書等の貴重な資料、資産を焼失してしまいますが、別当であった東叡山凌雲院の四代目学頭の慈海僧正により再建されました。
なお、現在、鳥居に掲げられた扁額は、この時に拝殿に奉納された半井大和守筆の額字を写したものだそうです。
時代が降り明治28(1895)年、湯島切通坂にあった宝剣稲荷が合祀されたそうです。
現在の境内地は小さなものですが、良い神社特有の凛と引き締まりつつ穏やかな空気が鳥居の向こう側に漂っています。また、神社本殿の後ろ側に(一旦、道路に出て回り込んだ場所)には弁慶鏡ヶ井(べんけいかがみがい)があります。手押しポンプを押せば今でも水がでるようです(が、何かあると困るので試していません)。名前が示すように源義経一行が奥州への逃避行の中、弁慶が見つけた井戸で、義経一行の喉を潤したと言われています。弁慶ゆかりの井戸と言えば、府中市にある高安寺に「弁慶硯の井戸(べんけいすずりのいど)」が遺されています。こちらは、東北へ逃れる前、鎌倉入りを目指した義経が兄 頼朝の怒りから許しを得られず、京へと向かう途中に使われたと言う井戸です。どちらも、義経ではなく「弁慶」として名を遺していることには素朴な疑問と共に、弁慶に対する人々の思いが表されているような気がします。
江戸時代の『江戸志』などの文書にも名水として記録がされていたのですが、時期は分からないものの、一度、埋められてしまったようです。そして昭和15(1940)年に掘り出されて、昭和20(1945)年に行われた東京大空襲など度重なる戦災で焼け出され、そして飢餓に陥った東京の人たちにとっては甘露となって命の水となったようです。また掘り出した時に井戸脇に石碑が造立され、その寄進者の中には横山大観画伯の名前も近隣に住んでいた縁から刻み込まれています。
私見ですが
何故か義経・弁慶の逃避行では義経よりも弁慶の方が史跡などに名前を残しているように思います。と言うか、弁慶の名前はあっても義経の名前は見かけた記憶がないのです。
義経・弁慶の出会いでは悪役だった弁慶ですが、その後は忠臣として生命を賭して主君を守り抜いた様子が評価され人気になっているのでしょうか?
お気に入り度
★★★★★
雰囲気
★★★
アクセス(駅近、駐車場など)
★★
概要
【主祭神】倉稲魂命
【社殿】
【鎮座地】 東京都台東区池之端1-6-13
【アクセス】 京成線 上野駅から徒歩10分
JR 御徒町駅から徒歩14分
東京メトロ銀座線 上野広小路駅から徒歩11分
【創建】 文明年間(1469-1487)
【社格】
【境内社】
【例祭】
【氏子】
【ご朱印】
※ 特記なし
【ご朱印帳】
【HP】なし
【SNS】 なし