目次

恵林寺

甲斐武田氏の菩提寺

御由緒

 戦国時代ファンにはお馴染みの甲斐武田家 武田信玄の菩提寺、恵林寺。その歴史は鎌倉時代の元徳2(1330)年に遡ります。当時の甲斐国の守護職は政所執事を努めた二階堂貞藤でした。その貞藤が笛吹川上流の所領牧荘を寄進して、高僧 夢窓疎石を招いて開山しました。この夢窓疎石と言う僧は国師号を受けた臨済宗の高僧なだけではなく、禅庭作りや漢詩、和歌と様々な才能を持つ人でもありました。
 こうして恵林寺は甲斐における臨済宗の中核に位置づけられ、古先印元・青山慈永・龍湫周沢・絶海中津らが錚々たる高僧が勅命を受け輪番住持となります。更に時代が進むと足利義満によって鎌倉禅林十刹に準ずる寺格を与えられたのですが、応仁の乱の影響で一時、荒廃してしまいます。
 そこから復興したのが甲斐武田氏の隆盛です。甲斐武田家の菩提寺に定められるようになると高僧が再び招かれようになったのです。天文10(1541)年には飛騨の豪族 三木直頼の義弟で臨済宗妙心寺派の明叔慶浚が28世として招かれます。
 続いて天文13(1544)年に第29世として鳳栖玄梁が開山派の僧として初の住職となっています。
 永禄7(1564)年、武田氏により寺領が寄進された。快川紹喜が恵林寺住職となり、更には美濃斎藤氏と武田氏との外交関係にも携わっています。『武家事紀』によれば、天正3年(1575年)4月、信玄の三年秘喪明りの葬儀が行われた際には、快川紹喜が導師を務めるています。なお快川紹喜は信玄・勝頼の2代に亘って政務顧問的な役割を果たと言われています。
 天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍の甲州征伐によって武田氏が滅亡します。そして織田氏は恵林寺に逃げ込んだ六角義定の引渡しを要求するのですが、恵林寺は拒否します。このため、織田信忠によって派遣された津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼らによって恵林寺は焼き討ちされてしまうのです。
 六角義定引き渡しを拒んだ快川紹喜は燃え盛る三門に登り「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と発しながら火の中で没したと言う逸話があります。なお後に再建・改築された三門の両側に、この偈が扁額として掲げられています。
 この後、信長が没し、甲斐・信濃の武田遺領は徳川家康の所領となりました。家康は武田遺臣を庇護し、また末宗瑞曷を招いて恵林寺を再建しています。

お気に入り度
 ★★★★
雰囲気
 ★★★★
アクセス(駅近、駐車場など)
 ★★★

寺院概要

【山号/院号】 乾徳山/-

【宗派、御本尊】臨済宗妙心寺派/釈迦如来

【所在地】山梨県甲州市塩山小屋敷2280

【アクセス】 中央道 一宮御坂ICから約20分

【開山】 元徳2年(1330)

【ご朱印】 あり

※  特記なし

【ご朱印帳】 あり

【HP】 オリジナル

【SNS】 インスタグラム

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地図

寺院お得意の御利益

ひと足伸ばして

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