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忍野(忍草)浅間神社

御由緒

 この神社、地名が難読なのです。「『おしぐさ』だろ」と言われると、このページのURLを見てもお分かりの通り、私の誤読が明らかになるのです。「忍野=おしの」なので、そう読んでいたのですが、正しくは「しぼくさ」です。ただ、忍草ではなく「忍野八海 浅間神社」と呼ばれることも多いようです。
 
 忍野八海から北に向かったところにある神社は、創建から約1,200年という歴史ある神社です。比較的広い境内に入る前には「ん?仁王像」と思う随神門と像とが待ち受けています。が、よくよく見ると服を着ているので仁王様とは違う様子です。
 この二体は四天王のうち、持国天(青)と増長天(赤)とが阿形・吽形を為して立っているのですが、少し随神門の歴史について考えてみます。建久4(1193)年に源頼朝が行った「富士の巻狩り」に遡ります。「巻狩り」とは余り馴染みのない言葉ですが「鹿や猪などが生息する狩場を多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を追いつめて射止める大規模な狩猟である(wikipedia「巻狩」より抜粋)」とされ、これを軍事教練的な活動とした側面があるそうです。それが特段「富士の巻狩り」とする理由は、この巻狩りが頼朝にとって大きな意味が遭ったからです。なぜなら建久4年(1192)年、後鳥羽天皇から征夷大将軍に任ぜられた頼朝は、将軍としての権威を誇示する必要がありました。まだ新しい幕府の新米将軍ですから、並々ならぬ気合が入っていたように想像します。というのも、その行動範囲が東側は静岡県御殿場市または裾野市、西側は朝霧高原と言うのです、狩場を囲むと言うより富士山を囲んだようにすら思えるのです。そして、この時、今は高座山、杓子山への登山口になっている鳥居地峠鬼坂までを社領とするよう頼朝が決めたと言われています。そしてその年の8月、頼朝が武運長久祈願を行い、鳥居地峠に御家人で富士の巻狩りへの参加が記録されている畠山重忠、そして和田義盛とが寄進して鳥居峠に建立し運慶作の金剛力士像が治められたものが忍草浅間神社の随神門だと伝えられれています。神仏習合の状況を物語る資料とも言えるかもしれません。
 さて歴史を現しているかのような本殿に目を移します。拝殿前には忍野八海それぞれから汲まれた水が献納されていて、更に奥の本殿には御祭神の木花之咲耶姫命の他、鷹飼・犬飼坐像の三神像が祀られています。この像は正和4(1315)年にヒノキの一本造りでつくられた県下最古の貴重なご神像といわれています。

神社概要

【御祭神】木花之咲耶姫命

【社殿】銅板葺三間社流造

【鎮座地】   山梨県南都留郡忍野村忍草456

【アクセス】 東富士五湖道路 山中湖ICから5分

【創建】大同2年(802)

【社格】

【境内社】

【例祭】5月3日

【氏子】

【ご朱印】 あり

※ 忍野三社も授受可

【ご朱印帳】 なし

【HP】なし

【SNS】 なし

地図

神社お得意のご利益

ひと足伸ばせば

ほんの10年前までは鄙びた日本の原風景だった忍野八海も、最近の「インバウンド観光客」で、すっかり様変わりしてしまいました。日本語よりも外国語が賑やかすぎるぐらいに飛び交う忍野の中で、今でもホッと一息つけるのが、この神社です。だから、ひと足伸ばして…どこかに行くよりも、この神社をじっくりと参拝してみるか、あるいは近隣の神社に足を伸ばして、今も残る忍野の原風景を探してみてください。