別当寺ってなに
神社の由緒書を見ていると「別当寺は○○寺」という記述を見ることがあります。今の目線で考えると「なんで神社の由緒にお寺が関係しているの?」となりますよね。多くの場合、神社の創建の方が古く、後からお寺が建てられいるのですから、何だか不思議です。
しかし、自分をタイムマシンに乗せて江戸時代よりも前に移動させると、とても自然なことなのです。
今では当たり前の「戸籍」ですが、江戸時代までは寺が管理する檀家帳がその役割を果たていました。また、戦国時代の比叡山延暦寺のように寺が領地を保有していたり、江戸時代には通行手形を檀家に対して発行すると言った形で、寺が持つ権力は今とは比べ物にはならず、自治体の役所の権限を持っていたと言っても良いのかもしれません。そして一つの村や町に別当寺がおかれ、この別当寺がいくつかの神社をも管理していたのです。このため、別当寺をトップに神仏の区別なく信仰の対象として大切にしていた時代とも言えます。
その一方、神社は宮司よりも別当寺が権力、権限を持っていました。このためなのでしょう、神社の様々な記録や書物が別当寺預かりとなっていたようで、都内の神社の由緒には「大火により別当寺が焼失したため、由緒不詳」と言った記述も珍しくありません。
このため、別当寺があってこその神社。という見られ方もしたのではないでしょうか。
明治維新を迎え、神仏分離が行われる中で、別当寺が制度として廃止されます。この中で、巨刹とも言える寺院が廃寺となったり、あるいは廃寺後に寺号が引き継がれたり、更には廃寺を機会に住職が神社の宮司に「転職」したりと、あまり教科書には出てこない大きな動きがあったようです。その動きの後に生きている私達には不思議な「別当寺」という存在ですが、今も神社とお寺とが昔の縁を生かしている様子が垣間見ることができると、政治や思想では分離できない絆を感じ取ることができたりします。