不空羂索観音

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梵名

アモーガパーシャ

真言

・オン ハンドマダラ アボキャジャヤニ ソロソロ ソワカ(真言宗)
・オン アモキャ ハラチカタ ウンウン ハッタ ソワカ(天台宗)

概要

不空羂索観音菩薩(不空羂索観世音菩薩)。長い尊名ですが、「不空」は虚しからずを、「羂索」は不動明王が左手に持つのと同じものですが、そもそもインドで狩猟や武器として使われたもので、この2つの意味が重なることで人々のあらゆる悩みや望みを逃すことなく捉え、叶える。とされています。

由緒

6世紀頃から信仰され始めたようで、天平7(735)年3月に唐から帰国したの玄昉という法相宗の僧侶によって本格的に日本へ伝わりました。玄昉は学問僧として入湯すると当時の高僧 智周から法相の教えを受けました。この時の在唐期間は18年で、皇帝 玄宗からも才能を認められ、三品に準じた紫の袈裟の下賜を受けたといいますから、相当な人物だったのでしょう。そして更に約20年後、天平7(735)年、再度、遣唐使に随行して経論5000巻の一切経と諸々の仏像を持ち帰ったと言います。少し脱線しますが、もう少し玄昉について書きます。
これだけの人物ですから、聖武天皇から信頼を受け、聖武天皇の母である藤原宮子が病を得た時には雑密の孔雀王咒経の呪法祈祷で回復させる事に成功、また東大寺建立も聖武天皇に玄昉が進言したものだと言われます。このように天皇の覚えめでたい状況の中で出世の階段を駆け上り、ついには政治の世界にも足を踏み入れます。吉備真備、橘諸兄が実質的に握っていた政治権力の中に入り込むようになると、僧侶ながら政治に深入りする玄昉には人格攻撃が行われるようになります。これが、天平12(740)年、藤原広嗣が乱を起こし吉備真備、そして玄昉の排除を試みます。結果的に乱は失敗に終わり。翌年には僧侶として千手経1000巻を発願、書写・供養しています。しかし、乱がきっかけとなったのでしょう、橘諸兄に変わって藤原仲麻呂が権勢を握ると、玄昉は天平17(745)年、筑紫観世音寺別当に左遷、翌天平18(746)年、ここで没したそうです。
このようにドロドロとした政治の世界に足を踏み入れたことで、余り以後の評価は高くないようですが、優秀な学問僧として持ち帰った仏教の教えの中に、この所願を成就させる不空羂索観音が含まれていたことは、もっと評価されて良いのではないかと思います。

私見ですが

あまり馴染みのない観音様ですが、不空が意味するところが「空振りなしで所願を成就させる」と理解できるのでとても有り難い観音様のようです。今度、お見かけしたら篤く篤くお参りしたいと思います。

お姿

日本では一面三目八臂が多く、三目の内の一つは額に縦向きに配置されます。胸の前に置かれた2つの手が合唱し、他の手の内、二手で与願印が結ばれ、残る四手で尊号にある羂索の他、蓮華や錫杖、払子を持っています。
鹿革を纏うこともあり、この事から春日大社の祭神である武甕槌命の本地仏とされているようです。

守本尊

なし

ご利益など

健康長寿、病気治癒、財福授与、美貌、罪障消滅、極楽往生

お祭りしているお寺の例

道住寺 港区(境内観音堂内に祀られています)
即清寺 青梅市(ご本尊として不空羂索観音が变化した不空羂索明王が祀られています)