安宅丸稲荷

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御由緒

まず、神社の紹介の前に「安宅丸」について書いておくべきでしょう。安宅丸は伝としては二代将軍 徳川秀忠が建造を決め、三代将軍 家光が旗本の向井忠勝に命じて作られた軍船です。この向井は父親の正綱が徳川水軍の将で御船手奉行だった人物で、高い造船技術をもっていたと言われ、忠勝も技術を体得しており、また秀忠の覚えもめでたく、船の移動の際には必ず忠勝を随行させたという人物です。
そんな忠勝が命じられた安宅丸建造。建造命令から2年掛かった寛永11(1634)年に完成。和洋折衷の船型で、船首には長さ3間の竜頭が置おかれ、竜骨(キール)の長さは125尺(38㍍弱)、肩幅が53.6尺(約20㍍)、推定排水量が1500トンと東寺としては最大級の軍船です。その動力は艪で、2人掛りの100挺が備えられていたと言います。艦上には安宅船と言う日本式の軍船艤装が施され、2層の総櫓、船首側に2層の天守が備えられていました。更に防御のため外板の厚みは1尺もある上、防火・船喰虫対策に船体や艦上の構造全てに銅板が張られていました。この偽装では当時、関船を主力とした他の大名の水軍力では破壊は不可能と考えられます。
ガンダムやスカイツリーが大きいだけ、高いだけで人が集まるのですから、話のネタにと思う江戸っ子にはうってつけの存在で、「日本一の御舟」などと呼ばれて江戸の名物になったのは言うまでもないでしょう。
この安宅丸。建造されたのは伊豆半島の伊東で、完成後に東京湾へと航海してきます。ただ巨大過ぎる船は、100挺の櫓で漕いでも推進力が足りず、船としての実用性には疑問符が付くようです。このため、建造の目的が将軍の権威を示すためだとか、わざと浅い喫水にして、江戸防衛の為の移動要塞としていた。と諸説入り乱れているのですが、江戸初期、幕藩体制が確立していく中で、豪奢な造りの船の存在は、将軍の威容を示すにはもってこいの存在だったのではないでしょうか。その一つの証左として伝えられるのが、元々は軍船としての仕様で作られた船だったものに家光の意向で豪華な装飾が施されたという点からも、軍事目的は二の次に考えられていたのではないでしょうか。
そんな安宅丸ですが、やはり維持費が物凄くかかります。そして約50年経った天和2(1682)年、とうとう解体されてしまうのです。しかし、そんな安宅丸は自分の運命が判っていたのでしょうか、船蔵に収められると、伊豆へ帰りたがった。とか、解体後は船体に使われていた板を穴蔵の蓋に使ったところ、安宅丸の魂がゆるさずに召使いの女に取り付いて主人を脅して穴蔵を作り変えさせたなどの伝承が残されています。巨大な船の魂か、あるいは、これだけの船体を作るために切り出された大木の精霊の仕業かも知れませんね。
さて、この神社は、アパートなのか私有地内にある邸内社です。元々、この付近には幕府の御用船が収められた「御船蔵」があったところで、古くは「深川御船蔵前町」と言われる場所でした。そして、そんな船蔵の間に安宅丸の魂を鎮めるためでしょうか安宅丸塚があったそうです。その跡地が恐らく現在の境内地となっていると思われ、今も伊豆を恋しがりながら東京湾を見守っているような神社です。

私見ですが

邸内社のようで閉じられた門扉の隙間から遥拝だけしてまいりました。そのため、神社の雰囲気などは解らないのですが、謂れを調べるほど、一種、道楽のように作られた巨船の悲しさと同時に、50年近くに亘って東京湾を鎮護した力強さがあるような気もします。

お気に入り度
 ★★
雰囲気
 ★★★
アクセス(駅近、駐車場など)
 ★★★★★

神社概要

【御祭神】

【社殿】

【鎮座地】 東京都江東区新大橋2-5-9

【アクセス】 都営新宿線、大江戸線 森下駅から徒歩2分

【創建】 不詳

【社格】

【境内社】

【例祭】

【氏子】

【ご朱印】

※ 特記なし

【ご朱印帳】

【HP】 

【SNS】

地図

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参拝記

2022.3.21 参拝記

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