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実相寺
山高神代桜
御由緒
日蓮宗の総本山 身延山久遠寺の直末の寺院である実相寺。 日蓮聖人を身延山に招いた波木井六郎実長から4代後の伊豆守実氏が身延山第五世 鏡円阿闍梨日台上人の弟子となり、實相院日應と名のるようになりました。
永和元年(1375年)、日應上人は、山高村大津で真言宗の寺を訪問し、真理法印と法義を論じ合った結果、論破します。そして法印から寺を譲り受け、日蓮宗に改宗して大津山實相寺と寺号も変更しています。
その後、永禄4(1561)年、川中島の合戦で武田信玄は蔦木越前守を当山第七世 日忍上人に遣わし武運長久の祈願を命じます。そして永代祈願所として現在の地にあった一条次郎忠頼の城址が寄進され、移転しています。
信玄が病に倒れ、嫡子の勝頼が当主となり武田家の勢力は衰退していきます。 勝頼は、長篠の戦い(1575)で織田信長に大敗を喫し、甲州征伐(1582)にて没落します。 武田家没落後、武田の家臣であった蔦木氏を含む多くの武川衆は徳川家に仕えました。 また徳川家康は、武田家の領国の統治の方法を手本とし武田遺臣を登用する政策をとりました。 武川衆は、天正壬午の乱(1582)では大きく活躍し、彼らの多くは将軍の旗本となりました。 武川衆の一員であった柳沢吉保が徳川第五代将軍・綱吉に仕え大老にまで出世した事はよく知られています。
『甲斐国志』で「仏堂、僧堂、番神堂、常唱堂、鐘楼、法蔵、総門等備ハレリ」と書かれていることから、多くの伽藍、堂宇が建立されていた事や、また七面大明神をお祀りした七面堂などが判っているのですが、元文元年(1735年)、弘化4(1848)年にそれぞれ火災があり、残念ながら建造物や寺宝などの歴史的遺物を焼失してしまいました。
現在では樹齢2千年と言われる「神代桜」が有名でシーズンになると、各地から寄進された各種の桜も合わせてピンク色に包まれ、また各地からの見物客が集まる華やかなお寺です。
お気に入り度
★★★
雰囲気
★★
アクセス(駅近、駐車場など)
★★
寺院概要
【山号/院号】 -/-
【宗派、御本尊】日蓮宗/十界勧請
【所在地】山梨県北杜市武川町山高2763
【アクセス】 中央道 須玉ICから約15分
【開山】 永和元年(1375)
【ご朱印】 あり
※ 特記なし
【ご朱印帳】 あり(汎用品?)
【HP】 オリジナル
【SNS】なし