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浄真寺(九品仏)
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御由緒
奥沢城。世田谷の民話や伝説に度々登場するお城です。その跡地に建つのがこの浄真寺。多分「九品仏」の方が親しまれた名前かもしれませんね。
さて、お城が神社や仏閣に転じた例は多くありますが、こちらは後北条氏の配下にあった世田谷吉良が治めていたようです。しかし後北条氏が豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡すると、このお城も廃城となってしまいます。今でも充分に広大な境内地ですが、それがそっくりそのまま廃墟となったわけです。その廃墟を江戸時代になった寛文5(1675)年、名主だった七左衛門が寺地として4代将軍 家綱から貰い受る形で取得、そこに延宝6(1678)年、珂碩と言う高僧が開山となって建立されています。
この珂碩上人ですが、元々は町役人をしていたようですが、上司の非道さに、これを斬り殺し出家したと言う事が伝えられます。そして、この珂碩上人は浄土宗の関東十八檀林の一つとされた霊巌寺の大島念仏堂に籠もって後に浄真寺二世となる弟子、珂憶と共に寛文7(1667)年、9体の阿弥陀如来像を完成させます。これが後に「九品仏」と呼ばれる阿弥陀如来像なのです。
しかし、この頃は隅田川からの出水も多かったようで、苦労して作った阿弥陀如来像も被害を受けてしまいます。そこで先程書いたように、奥沢城の跡地が提供され、そこに阿弥陀如来像を安置することとなりました。実物を見れば判りますが、一つ一つの如来像は中々に大きいものですから、作る苦労と共に運ぶ苦労を想像して拝観すれば、感動を覚えるほどです。
浄真寺には東門、山門とを過ぎたところにある龍護殿(本堂)の更に先に3つのお堂が立ち並んでいます。この3つは左から下品堂、上品堂、中品堂となっており(「品」は「ぼん」と読みます)、そのそれぞれに「上生」「中生」「下生」(「生」は「しょう」と読みます)の阿弥陀様が並んでいます。
なお「また下品なことを」とか「あちらは上品だからね」は、浄土宗での上品、中品、下品の考え方から来ているようですね。
こうして3品に3生の阿弥陀様があることから「九品仏」と呼ばれるようになりました。
珂碩上人の作った阿弥陀様は、どれも平安時代に寄木造りでの造作を完成させた仏師 定朝の技法を使った正統な造像となっています。また本尊の釈迦如来も珂碩上人によるものです。
私見ですが
駅を降りるとすぐに濃い緑に囲まれた境内が目に入る浄真寺。いや、九品仏さんと呼ばせてもらいますね。九品仏さんへは、バスや徒歩で裏から境内へ散歩していくことが多く、そうすると明治時代に立てられた「狩猟禁止」の石碑など、隅々に歴史を感じさせる遺構が残されていますし、山門、仁王様なども見応えたっぷりな聖域です。しかし、一方で改修などで駐車場が拡張されたりするなど、そういった歴史が塗りつぶされているような危惧を抱いたりもします。
壊すことは簡単にできても、残すこと、戻すことはとてもむずかしい事です。できるだけ、今の景観、歴史を後世に残せるよう、改修は必要最低限に抑えていただきたいと願っています。
お気に入り度
★★★★
雰囲気
★★★★★
アクセス(駅近、駐車場など)
★★★★★
神社概要
【山号/院号】 九品山/唯在念佛院
【宗派、御本尊】浄土宗/釈迦如来
【所在地】 東京都世田谷区奥沢2-14-3
【アクセス】 東急大井町線 九品仏駅から徒歩3分
【開山】 寛文5年(1675年)
【ご朱印】 あり
※ 納経により授受可能な印を含め、多種あり
【ご朱印帳】 あり
【HP】 なし
【SNS】 なし